越後方と激戦を繰り広げた大藤隊の兵員数を検証する。
年未詳の大藤隊の人数調査結果と1559(永禄2)年成立と伝えられる『役帳』における諸足軽衆の役高を表にまとめた。
氏名 | 役高(貫文) | 規定の人数 | 1人辺りの貫文 | 実際の人数 | 1人辺りの貫文 |
大藤式部丞 | 320.7 | 193 | 1.66 | 149 | 2.15 |
加藤四郎左衛門 | 33.5 | n/a | n/a | n/a | n/a |
大形 | 127.43 | n/a | n/a | n/a | n/a |
玉井帯刀左衛門 | 152.63 | n/a | n/a | n/a | n/a |
当麻三人衆 | 125 | n/a | n/a | n/a | n/a |
大谷彦次郎 | 143.432 | 54 | 2.65 | 26 | 5.52 |
近藤隼人佑 | 75 | n/a | n/a | n/a | n/a |
有滝母 | 10.96 | n/a | n/a | n/a | n/a |
清田 | 27.468 | n/a | n/a | n/a | n/a |
伊波 | 362.248 | n/a | n/a | n/a | n/a |
多米新左衛門 | 184.814 | 81 | 2.28 | 50 | 3.7 |
富島 | 262.607 | 74 | 3.55 | 39 | 6.73 |
富島彦左衛門 | 29.525 | n/a | n/a | n/a | n/a |
深井 | 69.068 | n/a | n/a | n/a | n/a |
荒川 | 146.423 | 60 | 2.44 | 38 | 3.85 |
磯彦七郎 | 50 | 30 | 1.67 | 23 | 2.17 |
山田 | n/a | 22 | n/a | 22 | n/a |
総数 | 2120.805 | 514 | 347 | ||
平均 | 132.550 | 73.43 | 2.38 | 49.57 | 4.02 |
『役帳』で「此内 百九拾一貫文 大藤衆 六十七人分 一人三貫文宛」と書かれているように足軽の場合は1人で3貫文が相場だったようだが、実際には結構ずれていたようである。また、定員数に対して35%程度しか人数が集められていない。人数チェックが1561(永禄4)年の秋に行なわれたとすると、越後方との激しい戦闘で目減りしたことになる。文中で武田氏と対談すると書かれているので、1560(永禄3)年~1568(永禄11)年の間に比定されるが、私見では1561(永禄4)年秋が最有力であると考えている。武田晴信書状が9月18日に「今川・北条と一緒に利根川に出撃する」と予告している。その傍ら、某宛の北条家朱印状では「大藤が出撃したので城から出るな」と指示している。この文書は年次未詳なので1561(永禄4)年とは限らないのだが、何れにせよ後北条氏の作戦として「籠城策+大藤遊撃隊」という選択が出来たのは1561(永禄4)年以後のことだろう。
更に考えると、死傷者による損耗率が激しかったのであれば、着到で指示するような一方的な内容にはならない可能性もある。この着到指示書の文意は「本来必要である員数を理由なくサボタージュした」という色が強い。大藤氏とその部下の死傷率は高くなく、遊撃戦での勝利を称えて褒美を下したのに召集率が悪かった……というのが一番自然な気がする。