自井口働之由注進候間、則信州衆申付、可立遣之仕度専一候キ、其上及十日令長陣者、出馬可遂一戦之旨談合議定候処、無功退散、先以心地好候、於向後者、其身上無二ニ可見続心底候、加勢・城米等無隔心可被申越候、委曲長延寺・甘利可申候、恐々謹言、
六月十七日
信玄(花押)
長井隼人殿
→戦国遺文 武田氏編「武田信玄書状」(敦賀市・長井家文書)
1564(永禄7)年に比定。
井口より侵攻があったと報告がありましたので、すぐに信濃国衆に指示して出撃準備に専念しています。その上で10日に及ぶ長陣をさせ、出馬して一戦を遂げる旨を打ち合わせて決めていたところ、(敵が)功なく退散しました。まずは心地よく思います。今後については、あなたの身上は無二に思い、見守る積もりです。援軍・兵糧は遠慮なくお申し付け下さい。詳しくは長延寺と甘利が申します。
10日で長陣という意識が興味深いですね。
ある程度は実働した期間を長いと表現して労る待遇表現かもしれませんが、狭い地域での軍事行動に終始していた時代の軍役の影響も引きずっているかも知れませんね。
越後上杉氏などは食料節約目的で関東で越冬することが何度もあったようですし、時代や地域によって「長陣」という意識も変わったかも知れませんね。
上杉輝虎の関東遠征ですね。他にも大内氏や三好氏、織田氏のように上洛して長期滞陣するパターンもありますし、後北条・武田各氏も長期遠征は行なっていますよね。
ただ、後北条氏の清戸三番衆着到状では「中十五日」の番を命じていますから、臨戦の緊張状態としては10~15日が目安だったのかも知れません。1571(元亀2)年時足柄城番では北条四郎と北条綱成の部隊が中4日の在番で、大藤隊は1日延びて5日勤務だったという氏政書状があります。この場合だと更に短くなっています。この辺りは部隊を頻繁に入れ替えていたのでしょう。