『武田氏研究第47号』の「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢 -武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として-」(小川雄・著)に、1560(永禄3)年に至る諸大名や国衆の動静がよくまとめられていた。この著述によって諸々の状況をまとめ易くなったため、ここで図示してみよう。

 

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永禄3年当時の状況を見ると、甲相駿三国同盟がまず基点にある。武田氏は、北信濃を巡って越後の長尾景虎(上杉輝虎)と抗争している。南の今川氏は、織田氏・水野氏との戦いを繰り返している。その一方で、美濃の斎藤義龍は東美濃の遠山氏、尾張の織田氏と敵対関係にあった。

ここで微妙なのが、武田氏と織田氏が修交関係にあった点である。これは、武田氏が南信濃を制圧する過程で、東美濃の遠山氏と最初に敵対し、やがて遠山氏を従属させたことに起因する。遠山氏が斎藤氏と敵対していたことから、武田氏もこの抗争に巻き込まれざるを得ず、かといって北信濃の情勢も厳しかったことから、遠山氏と連携して斎藤氏と敵対していた織田氏と交信を交わすようになった。

これは、1547(天文16)年以来織田氏と交戦していた今川氏にとって重大な問題である。抗議してもよいのだが、事はそう簡単ではなかった。

というのは、武田氏が南信濃を抑えた背景には、天文末年に尾張東部(岩崎・鳴海)まで西進していた今川氏との共同戦線を形成する狙いがあったからだ。ところが、弘治年間から三河国衆の叛乱が相次いで今川氏の西進は遅滞してしまう。本来は織田氏と親しかった遠山氏はこれを見て、奥三河の反今川方に加担して南進を開始していた。

武田氏が従属した筈の遠山氏を制御できず、斎藤氏を牽制するために織田氏と結ばざるを得なかったのは、美濃よりも北信濃に重点を置きたいという本音もさることながら、今川氏の三河統治に主な原因があったといえる。西進を止めてしまった今川氏がどうこう言える立場ではなかった。

そしてこの状態が続くと武田氏と織田氏の関係はより深くなり、今川氏は対斎藤氏の戦線で遅れを取ることとなる。そこで今川義元が構想したのが下図である。ここからは私の仮説に基づく。

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義元は自身が三河守に任官し、息子氏真には治部大輔を継承させる。ここで氏真の上位者であることを確認しつつ、三河統治には国衆出身の松平元康を起用。ついで鳴海から熱田、那古屋辺りを制圧して織田氏を従属させる(水野氏も同時に従属させ、遠山氏との関係改善も図る)。

こうすれば、対斎藤氏との戦いに織田・水野・遠山を出陣させ、それを支援することで西方戦線の主導権が握れ、武田氏も北信濃に専念できる。

ところが実際には義元が戦死したことで構想は崩壊し、当初の考えとは逆に織田氏に従属した松平氏が三河・西遠江を侵食することとなる。

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武田氏と織田氏の接近は進み、やがて武田晴信の庶子で四男の勝頼に織田信長の猶子となった遠山氏の娘が嫁すこととなる。前述論文でも触れられているが、1568(永禄11)年の駿河侵攻につながる事態は、義元敗死によって確定したといってよいだろう。

『日本史さんぽ』で、ケイメイ氏が興味深いエントリをしていた。「永禄2年10月19日の理由」というタイトルで、大高城補給の感状がわずか4日後に出ていたことから、「去十九日」は感状が発給された10月ではなく9月19日ではないかという疑問を呈されていた。しかしその場合は「去月十九日」と書くのが通例であることから、10月19日の4日後に今川義元は感状を発給したと見てよいと思う。では、駿府にいたのでは間に合わないのではないかというケイメイ氏の疑問はどのように解決できるだろうか。

そこで、義元の感状が戦闘発生後どのくらいで発給されたのかを挙げてみる(越年したり期間が半年を越えるものは除く)。表の最後の地名は戦功を挙げた場所となる。

2日後 4月24日→4月26日 寺部(豊田市)
3日後 4月15日→4月23日 衣(豊田市)
3日後 9月25日→9月28日 土狩原(長泉町)
4日後 10月19日→10月23日 大高(名古屋市)
6日後 8月16日→8月22日 今井狐橋(富士市)
10日後 9月5日→9月15日 田原大原構(田原市)
12日後 8月4日→8月16日 作手名化(新城市)
13日後 11月23日→12月7日 安城(安城市)
14日後 5月17日→6月2日 名倉舟渡橋(設楽町)
15日後 9月5日→9月20日 田原(田原市)
27日後 3月19日→4月17日 小豆坂(岡崎市)
27日後 9月18日→10月15日 桜井(安城市)
29日後 11月8日→12月23日 安城(安城市)
29日後 11月23日→12月23日 上野端城(豊田市)
29日後 11月23日→12月23日 上野南端城(豊田市)
99日後 3月19日→7月1日 小豆坂(岡崎市)

先の投稿で今川義元の出征は少なかった旨を書いたが、1550(天文19)年の衣城攻めでは現地に赴いていたようだ。これは後の9月27日に伊勢神宮御師宛に就今度進発、為立願於重原料之内百貫文とあるのでほぼ確実だろう。同様に、僅か2日後に発給していた1558(永禄元)年4月26日の足立右馬助宛感状から、この前後には三河で督戦していたと考えられる。

また、1545(天文14)年の対後北条戦の土狩原・今井狐橋も義元が親征していたのは『高白斎記』によって判っている。

その一方、田原攻めで天野氏が感状を受け取ったのは15日後だが、仲介の約束をした太原崇孚の感状は9月10日。すなわち、合戦5日後に現場指揮官の崇孚が暫定で感状を発給し、正式に義元が発給するのがその10日後となる。この時義元は駿府にいたと考えてよいだろう。

ここから敷衍すると、1559(永禄2)年10月23日に義元は三河で陣頭指揮をとっていたことになる。ではいつから三河入りしていたのかという点だが、最長で捉えると前述の永禄元年4月26日からの滞在。ただそれでは少し長過ぎるように考えられる。そこで注目したいのが、永禄2年5月23日付けの「今度彦九郎号上洛、中途迄相越、親類被官人為書起請文、対清房相企逆心、」という氏真書状だ。興津彦九郎が突然上洛を企てた原因はよく判らなかったが、三河から尾張に移っていた義元と合流しようとしていたとすれば合点がいく。その道中で親類と被官に起請文を書かせたという点と、それが父の清房に対する逆心になったと氏真が責めている点を合わせてみると、義元と氏真の疎隔を匂わせるように見える。また、松平元康の書状三河初見は永禄2年5月16日であることから、義元はこれより前に元康を帯同して三河入りした可能性も考えられる。

三河国において、今川氏がどのように給人を扱ってきたかは以下のエントリで考察してきた。

検証a25:三河給人の扱い1 牧野保成の場合

検証a26:三河給人の扱い2 松平親乗の場合

検証a32:三河給人の扱い3 奥平定勝の場合

何れも高圧的で、引き立てる振りをしながらそれぞれの国衆の勢力を弱めようとしているものだった。では三河国衆はどのように考えていたのだろうか。それを探る手がかりになるのが、三河国上郡の鵜殿氏の発言を後世に遺した日蓮宗僧侶日覚の書状である(鵜殿氏は日蓮宗への信仰心が篤く、この発言は本音だろう)。

日覚、越後本成寺に諸国の状況を伝える

鵜殿仕合ハよくも有間敷様ニ物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処ニ、覚悟外ニ東国はいくんニ成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、

「(この文の前に織田が三河を軍事的に席巻したことが書かれている)鵜殿の状況はよくはないとの話です。その内容は、尾張と駿河の間を縫って色々とうまく立ち回っていたところ、思いのほかに東国(今川義元)が敗軍になったので、弾正忠(織田信秀)に一段とつまらなく思われたとのことです」

1547(天文16)年と比定される文書で、日付は9月22日。その僅か17日後には、今度は今川方が尾張まで攻め込んだ旨を報告している。

菩提心院日覚、本成寺に周辺の状況を伝える

駿河・遠江・三州已上六万計にて弾正忠へ向寄来候へ共、国堺に相支候て、于今那古野近辺迄も人数ハ不見之由候、果而如何ゝゝ

「駿河・遠江・三河から約6万ほどで織田弾正忠へ向かって寄せ来たりましたが、国境で防戦して、今は那古野近辺でも部隊は見えないとのことです。果たしてどうなのでしょう」

9月22日には「弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候」とまで書いていた織田方が呆気なく三河を失い、尾張にまで攻め込まれたのは、織田に一方的に勝たれては困るという三河国衆の意向があったように思える。

ここで出てくる鵜殿氏は三河国衆の中では今川寄りの勢力で、「鵜殿長持書状写」では、講和の裏工作をする織田信秀を長持が責めている。また、永禄4年に松平元康が叛乱を起こすと今川方に最後まで残って当主長照が討ち死にしている家だ。その鵜殿氏ですら「どちらに勝たれても困る」と語っている。

ちなみに日覚と書状を交わしている玄長は分家である下郡鵜殿の当主、また、大高での戦功を称された鵜殿十郎三郎は柏原鵜殿の系統となる(十郎三郎の娘が西郡殿と呼ばれる家康最初の側室で、後に北条氏直に嫁す督姫を産んでいる)。

三河国には強力な守護大名が存在せず、室町期は将軍直属の奉公衆を輩出していた土地柄だった。この故に、小規模な国衆が割拠する自由を知っており、織田にせよ今川にせよ一方的に制圧されることを嫌ったのだろう。逆にそれだからこそ、織田信秀も今川義元も軍事力を背景に圧力を掛けて国衆の勢力を殺ごうとしたと思われる。

こうした状況を終息させるべく、義元は西三河で最大勢力を持っていた松平氏の当主元康を担ぎ出してきたものと考えている。

『甲相駿三国同盟』は有名だが、この成立条件の一つに3つの大名がともに同年齢の嫡男を持っていた点がある。

永禄3年1月時点での比較を表にしてみる。

嫡男 配偶者 父親 婚姻期間
武田 義信(22歳) 義元娘 晴信(39歳) 9年
今川 氏真(22歳) 氏康娘 義元(41歳) 5.5年
後北条 氏政(22歳) 晴信娘(17歳) 氏康(45歳) 5年

嫡男の年齢が全員一緒であり、またそれに配偶できる嫡女が存在したが故にこの同盟は婚姻を伴えた。では、次の世代への継承で考えるとどうだろうか。

短期間で見ると、同盟(婚姻)期間が最も長く、父親の年齢が若い武田氏が最も有利であり、その逆の後北条氏が不利となる。だが、この時点で3つの大名ともに嫡孫は得られていなかった。嫡男と嫡女という強い政治要素を入れてしまった以上、その2人の息子を次世代に据えるのが必須になってくる。この婚姻同盟にはこういった不安定要素も織り込まれている。

  • 武田家

男系継承が前提だから、成婚後9年を経て男子に恵まれなかった武田義信は深刻だったと思われる(女児の園光院殿はいたとされるが)。晴信の次男は盲目、三男は夭折している。正室腹ではないが四男勝頼が14歳、また晴信次弟信繁の嫡男信豊が11歳で存在するがともに未婚。永禄8年に義信が廃嫡される伏線がここに織り込まれているように見える(結局義信は家督を継げなかった)。

  • 後北条家

その一方で順調な兆しを見せていたのが北条氏政である。武田の嫡女である黄梅院殿とは、3家で最も遅い天文23年12月に成婚しているが、翌年11月8日に長男、更にその翌年に長女を出産(長男は夭折)、続いてそのまた翌年の1557(弘治3)年11月に武田晴信が願文を出している。それによると翌年6月出産予定とのこと。今川義元が敗死した直後の永禄3年7月にも晴信は願文を出しており懐胎の気配があったことが判る。後の嫡男となる氏直が生まれるのは1562(永禄5)年なので永禄3年の時点で後継男児はいないのだが、脈は大いにあったと言えるだろう。永禄2年12月23日に氏政が家督を継承できたのはこういった要因もあったと考えられる。

  • 今川家

未知数ながら勝頼・信豊の存在があった武田家より更に追い詰められていたのが今川で、義元にも氏真にも男兄弟は残っておらず、氏真と蔵春院殿(早川殿)との間には、後に吉良義定室となる娘しかいなかった。3代か4代遡れば血縁者もあったかも知れないが、文書に出てくるような活動は残されていないため落魄していたと思われる。

この事態を受けて、氏真への家督継承が曖昧になっていたのではないだろうか。毎年1月13日の歌会始は当主が行なっているが、1557(弘治3)年は氏真が行なっている。山科言継の記述によると、この歌会の前に大方(瑞光院殿・寿桂尼=氏親正室)から言継に装束の贈呈があり、氏真が当主として初めての歌会始を行なうニュアンスが伝えられている。ところがこの後の1月29日に義元が歌会始を急遽挙行し、これにも言継は駆り出されている(この時には大方は動いていない)。氏真の家督継承を既成事実とすべく活動する大方と、それを打ち消そうとする義元の対立が見て取れる。

これは後で詳しく検証する必要があるが、大方と義元に血のつながりがないと私は見ている。つまり、氏親が側室に生ませたのが義元という考え方である。花蔵の乱や第2次河東の乱での大方の動きを見ているとどうもそのように思えるためだ。

そのような観点から見ると、大方が氏真の継承を推したのは、氏真正室の蔵春院殿が、大方の嫡女である瑞渓院殿のそのまた嫡女だからだと気づく(閨閥図)。長女の長女であり、外孫とはいえ蔵春院殿を引き立てたかったのではなかったか。一方の義元から見れば、氏真は息子ではあるものの、その嫁とは関わりがない。自身に次男ができる可能性もある以上、氏真に譲ったら内紛の原因となることを危惧していたように思える。

そして大方には後北条家から手元に預かった北条氏規もいた。氏規は瑞渓院殿の次男と記されており、前述の言継記述によると大方は年中同行させていた。そして氏規は1556(弘治2)年12月に11歳で「祝言」したと記載されている。この祝言が元服を意味するのか婚姻を意味するのかは説が分かれているところだが、私は元服には少し早いので婚姻ではないかと推測している。婚姻の場合、原典は明確でないが朝比奈泰以の娘が相手とする説がある。

この氏規は仮名を「助五郎」としており、今川家嫡流の「五郎」から来ていることは確実だ。筆頭重臣の娘と娶わせているのであれば、氏真に何かあった際に氏規を担ぎ出す予定だったように思える。

一方の義元には、別の血筋があった。自身の側近関口氏広に嫁した女性は、『戦国人名事典』によると義元の妹と一般に言われているが、元側室だったという説もあるらしい。何れにせよ非常に近しい間柄であり、前述の義元庶子説を前提とするなら同腹の妹だった可能性があるように見える。そして、この関口氏広室は、清池院殿(俗に築山殿・瀬名姫)を産む。

清池院殿は1557(弘治3)年1月15日に西三河国衆の出身である松平元康と婚姻するのだが、2年後の永禄2年3月6日に嫡男信康、翌年6月6日に嫡女(亀姫)をもうける。多産といっていいだろう。

義元は、自身の血統である蔵春院殿・氏規を推し立てる大方に対抗して、姪の子である信康に着眼したのではないだろうか。そのためには、松平元康をもっと引き立てる必要がある。

さて、1560(永禄3)年1月という、鳴海原直前の状況に立ち戻ってまとめてみよう。

武田家は嫡男義信に後継者が9年もなく焦り気味。四男勝頼が徐々に脚光を浴び始める。

後北条家は氏政への家督継承も終わり、多産であるこの若夫婦に期待しつつも、戦略的な養子に出した次男氏照・三男氏邦を呼び戻すこともできる状態。最も安定している。

今川家は氏真が5年半後継者をもうけられず、それでも大方の方針で家督を継承させつつある。但し、次善策として大方は15歳の外孫、氏規を用意し、義元は1歳の姪孫、信康(後見として17歳の元康)を検討し始めた。

確実にいえることは、三国同盟が足枷になって正室所生の後継者が必要であり、今川家は氏真後の後継者が永禄3年時点では不透明だった点である。

余談だが、この仮説で義元が後継者と目した信康には娘2人しかできなかった。遠い後に信康は義信と非常によく似た境遇で切腹に追い込まれているが、「後継者をもうけられなかった」という共通点をもって事態を把握することは重要な要素だと思われる。

括弧内が氏真。0.5でカウントしているのは連署。5月19日に義元が死去すると、大量の文書が氏真から発給される。代替わりという点もあるだろうが、その直前まで義元・氏真ともに文書数が低くなっていることから、その反動だとも考えられる。

氏真の発給総数は329.5で、義元死後すぐに大量発給し、その後は緩やかに下降し、永禄8年に年間28通前後で落ち着く。地域的な傾向はなく、義元は遠江で数が低かったが、そういった特徴はない。ただし、1563(永禄6)年以降は三河で文書発給が見られなくなる。

この2名の地位継承期と関連すると思われるが、弘治3年には義元が、永禄3年には氏真が発給数を飛躍的に上げている。この点は後で具体的な仮説とともに検討してみようと思う。

今川義元・氏真書状分布
駿河 遠江 三河 尾張 その他
弘治3年 11 6 16 1 1.5(0.5) 35.5(0.5)
永禄1年 4(7) 1(3) 17 4 1 27(10)
永禄2年 2(8) 3(4) 3 3 2 13(12)
永禄3年 1(30) 1(25) 0(22) 0 0(6) 2(83)
※5月19日以前 1(5) 1(2) 0 0 0(2) 2(9)
※5月20日以降 (25) (23) (22) (0) (4) (74)
永禄4年 (29) (19) (41) (0) (7) (96)
永禄5年 (14) (13) (38) (0) (1) (64)
永禄6年 (10) (15) (18) (0) (1) (44)
永禄7年 (6) (24) (2) (0) (2) (34)
永禄8年 (14) (10) (2) (0) (1) (27)
永禄9年 (10) (16) (0) (0) (0) (26)
永禄10年 (5) (17) (0) (0) (6) (28)
永禄11年 (10) (10) (0) (0) (2) (22)
190(143) 107(156) 165(123) 9 30.5(26.5) 609.5(329.5)

今川家文書分布の中から、義元のものだけで抽出した。

義元の場合、三河国への文書によって傾向が窺える。概観すると1550(天文19)年をピークとする山と、1556(弘治2)年の山とに分かれる。天文末年には三国同盟が成立して、東から西へと戦略方針が転換するためだろう。その一方、1559(永禄2)年以降は大きく発給数が落ち込み、没する永禄3年には2通しか見当たらない。弘治2年のピークが何か要因になっているかも知れない。

ちなみに、永禄2年の三河国宛文書は、白山先達の訴訟を巡る財賀寺関連のものだけで、国衆に宛てたものは存在しない。同年の尾張宛は、大高補給と出陣予告となっているのと対照的ではある。

今川義元書状分布
駿河 遠江 三河 尾張 その他
天文5年 20 7 0 0 1 28
天文6年 3 3 0 0 1 7
天文7年 4 2 0 0 0 6
天文8年 9 8 0 0 0 17
天文9年 2 9 0 0 1 12
天文10年 1 7 0 0 1 9
天文11年 11 7 0 1 0 19
天文12年 9 8 0 0 3 20
天文13年 12 5 0 0 1 18
天文14年 7 1 0 0 0 8
天文15年 2 0 2 0 1 5
天文16年 2 4 9 0 0 15
天文17年 6 1 8 0 0 15
天文18年 7 1 13 0 1 22
天文19年 8 6 16 0 0 30
天文20年 20 5 12 0 3 40
天文21年 19 10 10 0 1 40
天文22年 8 2 7 0 6 23
天文23年 5 3 14 0 1 23
弘治1年 7 3 10 0 1 21
弘治2年 10 3 28 0 4 45
弘治3年 11 6 16 1 1.5 36
永禄1年 4 1 17 4 1 27
永禄2年 2 3 3 3 2 13
永禄3年 1 1 0 0 0 2
190 106 165 9 31 501

グラフ

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下記にまとめた数字は、戦国遺文今川氏編からカウントしたもの。宛先、もしくは言及されている地名から国ごとに割り振った。国の名前が判らない場合は「その他」に分類した。

留意点を箇条書きで記しておく。

尾張国宛については、1542(天文11)年を初見とし、1557(弘治3)~1560(永禄3)年に集中している。

三河国宛は、東三河・西三河で分けるべきだったが今回は行なっていない。1546(天文15)年から増え続けているが、1553(天文22)年・1559(永禄2)年が1桁に落ち込んでいる。

駿河・遠江の2国は三河より数が少ないものの安定して出されている。どちらかというと駿河の方が多目に出ている。1551(天文20)~1552(天文21)年と、1560(永禄3)年は突然多くなっている。これは戦争による所領変更が要因かと思われる。

今川義元・氏真書状分布
駿河 遠江 三河 尾張 その他
天文5年 20 7 0 0 1 28
天文6年 3 3 0 0 1 7
天文7年 4 2 0 0 0 6
天文8年 9 8 0 0 0 17
天文9年 2 9 0 0 1 12
天文10年 1 7 0 0 1 9
天文11年 11 7 0 1 0 19
天文12年 9 8 0 0 3 20
天文13年 12 5 0 0 1 18
天文14年 7 1 0 0 0 8
天文15年 2 0 2 0 1 5
天文16年 2 4 9 0 0 15
天文17年 6 1 8 0 0 15
天文18年 7 1 13 0 1 22
天文19年 8 6 16 0 0 30
天文20年 20 5 12 0 3 40
天文21年 19 10 10 0 1 40
天文22年 8 2 7 0 6 23
天文23年 5 3 14 0 1 23
弘治1年 7 3 10 0 1 21
弘治2年 10 3 28 0 4 45
弘治3年 11 6 16 1 2 36
永禄1年 11 4 17 4 1 37
永禄2年 10 7 3 3 2 25
永禄3年 31 26 22 0 6 85
永禄4年 29 19 41 0 7 96
永禄5年 14 13 38 0 1 66
永禄6年 10 15 18 0 1 44
永禄7年 6 24 2 0 2 34
永禄8年 14 10 2 0 1 27
永禄9年 10 16 0 0 0 26
永禄10年 5 17 0 0 6 28
永禄11年 10 10 0 0 2 22
333 262 288 9 57 949

今川家文書発行分布

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戦国時代の合戦で『桶狭間』と並んで著名なのが『厳島』だ。どちらも通説では共通点がある。

■敗者は数箇国を領し圧倒的に兵数で有利だとされている
■有利な兵数による驕りと悪天候が敗因になっている
■勝者側に感状が残っていない

ところが、厳島合戦を調べた史家の中には上記が当てはまらないとしている方がいた。

再考 厳島合戦「中国新聞連載記事」秋山伸隆・著

この記事によると、陶方は兵数として劣っており、弘中隆兼は妻に遺書めいた書状を渡して戦場に赴いていたという。つまり、陶晴賢は劣勢を挽回すべく決死の戦いを挑み、衆寡敵せず戦死したのだろうと推測されている。

早速、記事中で取り上げられている史料の一つを入手できたのでアップしてみよう。

 サル間ニ陶禅門ハ名ヲ全薑ト付ケ、九月廿一日当島ヘ押シ上リ、宮崎ヲ大将ノ陣トシ、弘中三河守ハ古城ヲ下リテ陣ヲ取ラル、ソノ外ノ防州衆ハ思ヒ思ヒニ陣ヲ取ル、

カゝル処ニ吉田ヨリハ、廿三日地御前ニ出張ス、国衆ハ各々聞キ懸カリニ陸路ヲ、沖西ノ火立石マデ出ラレケル、船数ナケレバ、興家ニ使者ヲヨセラル、折節、土州表ヘヨルベシトテ乗船ノ砌ナレバ、先ヅ安芸ノ内ヘ合力スベシトテ、船数ニ三百艘ニテ下ラル、
サレバ、当島ノ城、心モトナシトテ、熊谷信直ハ廿六日、船数五六十艘ニテ當城ヘ入リ給フ、城ノ気負ヒ是非ニ及バズ、

然ル間、廿八日ニハ、興家ノ警固二三百艘下ル間、明ル廿九日ノ暮ニカゝリ、元就乗船アリテ、包ノ浦ヘ船ヲ付ケテ、バクチ尾ヘ上リ給フ、興家ソノ外ノ国衆ナドハ、博奕尾ニ大将ノ陣ニ鬨ノ声ノ上リシ後、ヲシ上ル、陶、弘中ハ一矢モ射ズ、西山ヲサシテ引キ退ル、小早川隆景ハ追ヒ懸ケ給ヒテ、西山ノ峠ニテ、陶ノ内ノ三浦ニ懸ケ合ヒ戦ヒ行ク、隆景ノ内ノ南ノ某、山縣勘次郎ソノ外五六人討タル、小早川殿ハ安穏ナリ、三浦越中ハ一所ノ者二十人バカリ、隆景ヘ打チ取ラレ給フ、陶全薑ハソレヨリ下リ、大江ト云フ処ニテ腹ヲ切ラセ申ス、宮川市允カイシヤクス、ソノキハマデハ五六人アリシナリ、

爰ニ、陶ノ内、柿並佐渡入道ハ、我ガ頭ヲ取リ、全薑ノ頭トシテ持チ出スベシト申セバ、脇弥左衛門尉ト云フ新里ノ内ノ者、首ヲセンノ包ミニ入レ、児玉周防守ニサゝグレバ、首ヲモ請ケ取リ、弥左衛門尉ヲモ討チケル、

「棚守房顕覚書」厳島合戦の項目

筆者の房顕は宮島の神主。1494(明応3)年生まれで、1555(天文24)年の合戦時には既に還暦を迎えていた。本書の成立は天正年間になってからというが、当時の目撃者の証言として見てよいと思う。

実際に戦闘したのは小早川隆景の手勢で、博奕尾から鬨の声を挙げて下山する。陶と弘中は全く応戦せずに退却を開始し、西山の峠で三浦・山縣がようやく戦闘に及ぶが討ち取られ、晴賢はそこから下った大江という場所で切腹する。この時周囲には5~6名しかいなかったという。この記述の後に弘中隆兼が200~300名で『龍ケ窟』に数日立て籠もる描写があるので、陶本陣はそれより多い500名前後が当初陣しており、敵の突撃によって四散したかと思われる。

これらの記述から考えると、確かに陶方は少数で戦闘に及んだという説は説得力がある。当主自らが危険な前線に立たなければならない程兵数に逼迫しており、そこを衝かれたのだろう。

負傷して退却した朝比奈親徳、護衛隊として全滅した松井宗信のことを考えると、鳴海原での合戦もこれに近似していたのかも知れない。

ちなみに、陶晴賢が名乗った「全薑」はショウガのことで、植物名はかなり珍しい。彼が何を思ってつけたかは判らない。

鳴海原合戦での最大の謎は、総大将義元の敗死にあるだろう。類似例がないか、その他同時代で発生した『総大将』の戦死例を見てみよう。下記は厳密な史料に基づいたものではなく、通説やWikipediaなども参考にしているのでご諒解いただきたい。

発生年月 敗死者 場所 享年 戦闘規模
1476(文明8)年2月 今川義忠 塩買坂 41歳
1494(明応3)年10月5日 扇谷定正 荒川渡河 49歳
1510(永正7)年6月 山内顕定 長森原 57歳
1517(永正14)年2月 武田元繁 有田中井出 不明
1546(天文15)年 扇谷朝定 川越? 22歳?
1549(天文18)年9月 宇都宮尚綱 五月女坂 37歳
1555(天文24)年10月 陶晴賢 厳島 35歳
1560(永禄3)年5月 今川義元 鳴海原 42歳
1584(天正12)年3月 竜造寺隆信 沖田畷 55歳
1586(天正14)年? 佐野宗綱 下彦間寄居 27歳

この中では、義元の祖父義忠の戦死状況が参考になるだろう。今川家という構成も同じなら、地理的にも近い。時期として近いのは厳島・沖田畷になる。

遠く長森原に遠征し、2年の激闘に敗れて死去した上杉顕定も状況が近いように思う。勢いでは押しながら、最後に追い込まれて全滅している。

後継政務者である氏真を駿河に残した義元と、実務補佐担当の憲房(養子ではない)を越後に同道した顕定では方針が異なる。顕定は南部戦線にも火種を抱えていたにも関わらず、実家である越後を優先したのだろう。

局地的劣勢を挽回する意味で前線に飛び込んで敗死、というのが一つのパターンなのかも知れない。扇谷上杉の2人、定正・朝定は不明な点があるので例外だとして、竜造寺隆信の戦死状況が判れば推論を進められそうだ。

もう少し踏み込んでみると、今川義忠が掛川荘を巡って政治的に苦戦した果てに奇襲で敗死したのを初めとして、政治要件を優先させて戦術を軽視・もしくは度外視した結果、というのが一つ原則になるかも知れない。これらの例を参考にしつつ、義元の政治要件、そしてそれを優先した結果のリスク規模を考えていきたい。

『戦国遺文 今川氏編』が第4巻で完結したのを受けて、いよいよ鳴海原合戦の考察を続けようと思う。

今川義元・氏真発給文書数推移

差し当たり、文書を取りまとめてみた。グラフにしたところ、いくつか留意点が出てきた。

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01)義元文書で、1552(天文21)年まで順調に伸びていた数値が翌年大きく下落する。その後1556(弘治2)年に復活するが、三河国が増加してその他を引き離している。特に遠江国は発給数は最後まで回復していない。

02)01で弘治2年に回復した義元文書数はすぐに下降を始める。特に1560(永禄3)年は、5月19日に戦死する事情があるものの、僅か2通しか確認できていない。

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03)氏真文書は、不慮の継承直後が最も濃密な発給頻度を持つ。永禄3年の5月19日以後は、駿河・遠江・三河に均等に出しているが、松平元康の謀叛が明らかになる永禄4年には極端な三河シフトを敷き、駿河29・遠江19・三河41という文書攻勢をかけている。

04)氏真は尾張への発給がなく、西三河への文書も永禄3年中が殆どとなる。