検証a42:永禄3年の政治地図
『武田氏研究第47号』の「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢 -武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として-」(小川雄・著)に、1560(永禄3)年に至る諸大名や国衆の動静が …
『武田氏研究第47号』の「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢 -武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として-」(小川雄・著)に、1560(永禄3)年に至る諸大名や国衆の動静が …
『日本史さんぽ』で、ケイメイ氏が興味深いエントリをしていた。「永禄2年10月19日の理由」というタイトルで、大高城補給の感状がわずか4日後に出ていたことから、「去十九日」は感状が発給された10月ではなく9月19日ではない …
三河国において、今川氏がどのように給人を扱ってきたかは以下のエントリで考察してきた。 検証a25:三河給人の扱い1 牧野保成の場合 検証a26:三河給人の扱い2 松平親乗の場合 検証a32:三河給人の扱い3 奥平定勝の場 …
『甲相駿三国同盟』は有名だが、この成立条件の一つに3つの大名がともに同年齢の嫡男を持っていた点がある。 永禄3年1月時点での比較を表にしてみる。 嫡男 配偶者 父親 婚姻期間 武田 義信(22歳) 義元娘 晴信(39歳) …
括弧内が氏真。0.5でカウントしているのは連署。5月19日に義元が死去すると、大量の文書が氏真から発給される。代替わりという点もあるだろうが、その直前まで義元・氏真ともに文書数が低くなっていることから、その反動だとも考え …
今川家文書分布の中から、義元のものだけで抽出した。 義元の場合、三河国への文書によって傾向が窺える。概観すると1550(天文19)年をピークとする山と、1556(弘治2)年の山とに分かれる。天文末年には三国同盟が成立して …
下記にまとめた数字は、戦国遺文今川氏編からカウントしたもの。宛先、もしくは言及されている地名から国ごとに割り振った。国の名前が判らない場合は「その他」に分類した。 留意点を箇条書きで記しておく。 尾張国宛については、15 …
戦国時代の合戦で『桶狭間』と並んで著名なのが『厳島』だ。どちらも通説では共通点がある。 ■敗者は数箇国を領し圧倒的に兵数で有利だとされている ■有利な兵数による驕りと悪天候が敗因になっている ■勝者側に感状が残っていない …
鳴海原合戦での最大の謎は、総大将義元の敗死にあるだろう。類似例がないか、その他同時代で発生した『総大将』の戦死例を見てみよう。下記は厳密な史料に基づいたものではなく、通説やWikipediaなども参考にしているのでご諒解 …
『戦国遺文 今川氏編』が第4巻で完結したのを受けて、いよいよ鳴海原合戦の考察を続けようと思う。 今川義元・氏真発給文書数推移 差し当たり、文書を取りまとめてみた。グラフにしたところ、いくつか留意点が出てきた。 01)義元 …