「本着到 百九十三人也」

1561(永禄4)年に大藤与七が率いた総数は514人。このうちで与七直轄の人数が193人である。

「北条家定書」

1590(天正18)年。この定書では80人を長浜に配備している。残りが240人で、このうち200人を韮山籠城、40人は半分に分けて在所と小田原の連絡に使うよう指示。この320人が大藤与七の兵数となる。

連絡要員として20人を二手に分けたという点が興味深い。在所の相模田原と小田原は1日で移動できる。情報を矢継ぎ早に伝えるためには、72分以内に1回は出せる体制が必要だった。

ちなみに、「与七(息子)は若輩である」と氏政が告げており、与七(父)が1561(永禄4)年に率いたような、同心16名による500人部隊は任されなかった可能性もある。

永禄当時の与七(父)も7年前に家督を継いだばかりの若輩だった。但し、この代替わりは嫡男の系統が絶えている状態で大藤金谷斎が亡くなったため、金谷斎の末子を相続させたとしている。相続時年齢が高かく、多くの同心を預けられたのかも知れない。

武田晴信(実は勝頼)書状

一方、上記で大藤(父)が1573(元亀4)年に討ち死にしたと判るが、それは韮山籠城の17年前となり、幼児継承だっとしても大藤(息子)は二十歳前後。家督を継いで17年では若輩とは思えない。天正末年、大藤家督は与七(孫)に移っていたという可能性も考慮できるだろう。

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