一般に『兵農分離』とは、農民を徴兵して増強していた兵員状況を変更して、専業の兵士のみで兵員を構成した行為を指す。よく言われるのが、兵農分離を率先して行なったのは織田信長であり、この改革によって織田方の戦力は増強された。その理由として、

  1. 農繁期でも作戦が可能になった。
  2. 高度な訓練を施すことで精緻な作戦行動が可能になった。

という言説である。

では、『兵農分離』というものは本当に行なわれたのか。農繁期に縛られない作戦も、高度な作戦の実行も専業兵士の出現とつながるのは納得できる。管見の古文書によると、後北条氏関係の文書で、兵士確保のため給人に大名から金銭を付与されている例がある。専業兵の利点は戦国大名が意識した形跡はあるといえるだろう。しかし、専従兵にはデメリットも存在する。維持にコストがかかる点と兵数が限られるという点だ。後北条氏でも、天正期には農民の徴兵のほうに躍起になっている。戦国最末期には、低コストで多くの徴兵が掛けられたほうが軍事的に効果的だったと結論付けられる。

但し、『兵農分離』で語られる言説にはもう1つ特異なものがある。

  1. 織田・羽柴系の大名の方が兵農分離を積極的に行なった。
  2. 後北条氏は天正後期になっても農兵に頼っていたため滅んだ。

何故このような対比が生まれるか。天正後期の後北条氏徴兵史料が残っているのに比べて、織田・羽柴系の大名ではそのような史料が見当たらないという状況証拠が根拠になっているように見える。織田氏関係の古文書は元々が少なく、「史料がないから現象もない」とは言い切れまい。同時代史料だけを見るならば、この状況証拠は根拠に成りえないだろう。織田氏が極端に異なる徴兵システムを持っていたという同時代史料がないことから、他氏と違いはなかったと考えるほうが理に適っている。

そのように考えて史料を見ていたところ、興味深いものが見つかった。

1582(天正10)年に織田信孝が四国攻めを準備した際、領国の北伊勢から15~60 歳の男子全員を招集している。このような動員形態については1585(天正13)年以降の後北条氏でも同じ文言が見られる。尾張と京都の色合いが強い織田氏、関東公方圏という自意識が強い後北条氏。共通するのは天正後期という時代だけであることから、この時期の関東・関西では専業兵士というよりは皆兵総動員のほうが志向されたと結論付けられる。

そもそも、戦闘規模が大きくなるにつれて専従兵が増えるという図式に無理があるだろう(この時代の城郭は後になるほど規模が大きいのが普通であるから、戦国時代に戦闘の大規模化がなされたのは間違いない)。兵数の大規模な確保は戸籍の把握による徴兵と予備役による経費軽減という組み合わせが最も合理的だ。

どうやら、近世武士が農業兼務ではなくなったという建前をそのまま受け取り、「その進化が戦国時代に行なわれ、なおかつ全国を制覇した織豊政権が端緒となった」という後付の推論があったのではないか。

上記はあくまで試論ではあるが、『兵農分離』の存否については引き続き留意して史料を見ていこうと考えている。

Trackback

no comment untill now

Sorry, comments closed.