然而 補記

明智光秀書状写 に「然而」があるが、引用元の『証言 本能寺の変』でこれを逆説としている。当サイトの用語解説然而で、逆接の用法は辞書に見られるのみで掲出文書に見られないことから、その存在に疑義を呈していた。よい機会なので藤田氏が挙げた文書が逆接かを検討してみたい。

「御返報」とあることから、本文書は返信である。宛所の雑賀五郷・土橋重治(以下、紀州勢)と明智光秀は、これまで書状のやり取りがなかった。紀州勢が上意を受けて出撃準備をしており、その中で同じ上意を奉じる明智に連絡を取ったとする。上意は当時の現職将軍足利義昭から発せられており、彼を京に入れることが目的である。ここまでの藤田氏の説明に異論はない。

但し、何故以下の解釈にしなければならないのかは理解に苦しむ。

なお「然而」を「しかして」と順接に読み、この時点ではじめて光秀が義昭に与同したとする見解もある(桐野、二〇〇一)。これについては、通常は「しかれども」と読み、「しかしながら」「そうであるが」と逆接で解釈するから、成り立たない。これは次に述べるように、本史料全体からもそのように解釈しないと整合的に解釈できないことにもよっている。(同書194~195頁)

このあとの「次に述べるように」というのは、追伸で「詳しくは将軍から上意として示されるので、上洛の件は詳しく書きません」ということを指す。どうも、桐野氏と藤田氏の間で、いつから明智が義昭を奉じていたかで意見が分かれ、そのキーワードとして「然而」を順接・逆接どちらに解釈するかが論じられてように思う。

では純粋に文面だけ見たら順接・逆接どちらが相応しいかを検討してみよう。箇条書きの部分を見ると、紀州勢が最初に送った文面がおぼろに判る。どこかの国と親しい間柄であること・和泉と河内方面へ進軍すること・近江と美濃の情勢を気にしていること。そしてこの3点の前提として、足利義昭を互いに奉じていおり、明智への書状も義昭の指示に基づいていることが推測される。

この箇条書き部分を踏まえて、文頭を見ていこう。最初に、音信が初回であることは間違いないと相手の見解を支持している。そして、義昭を奉じていることを示してもらったことを感謝している。明智は先の書状が来るまで紀州勢が同じ陣営だと認識していなかった。

この後に問題の「然而」が入る。次に続くのは、明智が義昭の上洛を命じられてすぐに了解したこと。その次がこの上洛作戦を前提にして紀州勢活動を依頼している一文である。紀伊国から和泉・河内に進軍するというのは、毛利氏に擁された義昭が攝津に上陸することを想定したものだろう。しかし、紀州勢は上洛作戦をこの返報で初めて知った可能性が高い。追記で「詳細は義昭から来るだろう」と書いたり、「すぐに承った」と急遽決まったことと強調したりしているからだ。

そこで改めて考えてみると、「然而」が逆接だと、

  • 「明智と紀州勢が同陣営で嬉しい」ところが「上洛作戦を即座に受託したのでそれを織り込んで動いて」

となり、文意が定かではない。一方順接だと、

  • 「明智と紀州勢が同陣営で嬉しい」ということで「上洛作戦を即座に受託したのでそれを織り込んで動いて」

となって問題はない。このことから、無理に逆接に読む必要はないと判断できる。

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