尚以、急度進退者被替候而、尤に存候ゝゝ、其方より可申候事と此方より申事候、分別あるへく候、尚以、しよたいをくつし候へハ我々そうさ大儀迷惑仕候へとも、借銭共とも仕候へハ、落居いかゝと存申事に候、かほもて首のあかをとり候て御心につかせ申たく候へく候、
 急度申候、一 其方進退の事、事外合力仕候を及身候付而、数度異見を申候へ共、是状之趣事さへなく候、言語道断ニ候、
一 右如申候、代々仕来候ことく売買仕候而、可然と申候へ者、いやと申候、薬師を仕候ハんと申候躰に候て候、
一 去年之秋、徳芳軒へも引合申候事、
一 去年冬、当所へ彦八殿御下之時もせんかく馳走申事ニ候、其時ノ申やうニハ、坂東へ可罷下との事ニ候に、早正中ニも可下哉と存候へ共、さたもなく候こと、
一 如此うつけ候て居候てハ、公用をつミつけ候て着候共売買をせす、領中をも不取候、作をもせす居候事ハさたのかきりニ候、せめてはちたゝきなとも可然候ハん哉、幸とやせん、孫七近所ニ居候事候間、一々京都へ可罷上なとゝ申事もけいりうか、
一 其方ミかきり候間、何事も成間敷候間、しよたいをくつし候たん可然候、一此条々書状ニハ不得申候間、平右・紀左衛門を頼候て申入候、深もなく候哉、六ヶ敷も候哉、菟角返事さへなく候間、直申候、返事より白山牛玉ニ精強仕候て、■■■もらひ可申候、さたのかきり言語道断ニ候へく候、恐々謹言、
天文廿一
九月廿日
全朔(花押)
(ウワ書)「(切封墨引)佐介とのへ 全朔より」

→愛知県史 資料編10「加藤延隆書状」(西加藤家文書)

 さらになお、急いで進退を改めることはもっともなことです。そちらが言いたいこととこちらから言っていること、分別をもって考えるように。さらになお、財産を崩すのであれば、私の出費もかさんで大変困るのですが、借金ともども相殺して破産してはいかがと思います。顔でもって首の垢をとりあなたの心に届かせたく思います。
 急ぎ伝えます。一、あなたの進退のこと、特に援助した件、身に及ぼしたことについて数回意見をいたしましたが、この書状のようなこともさえなく、言語道断です。
 一、右に言うように、代々の仕来りのように売買を行なうことについて、そのようにせよと言ったところ、「いや」と言いました。薬師となると言い出す体たらくです。
 一、去年の秋、徳芳軒に紹介したこと。
 一、去年の冬、こちらに彦八殿がいらっしゃった時も奔走するようにわざわざ伝えたのに、その時の言いようでは、坂東へ行くだろうことでした。ところが「早ければ正月中にも出発する」と言っていたのに、結局何もしなかったこと。
 一、このような馬鹿者であるから、着荷があっても売買をせず、領内関税も取っていません。農耕もせずいるのなら、論外です。せめて鉢叩き(念仏行者)にでもなれるならばありがたいのではないか。孫七の近所にいるので、いちいち京都へ上るなどと言っているのも『けいりう』か。
一、あなたを見限ってどんなこともしないので、財産を取り崩しているのも当然でしょう。これらのことは書面には書けませんので、平右と紀左衛門に頼んで申し入れました。深く考えることもなかったのでしょうか、難しかったのでしょうか、ともかく返事さえないので、直接ご連絡します。返事は、白山午王の起請文をもらって書いて下さい。あなたがやっていることは言語道断です。

去年一乱以前借物之事、就敵筋者、縦雖有只今免許不及返弁、先当年貢急度可弁済物也、若就旧借之儀有入催促使輩者、彼使不及許容、依注進可加下知者也、仍如件、

天文十六

九月二日

山中七郷

其外医王山知行分

→愛知県史 資料編10「今川義元朱印状写」(松平奥平家古文書写)

 去る年の一乱より前の借財のこと。敵方の者はたとえ直近の免許があったとしても返済しなくてよい。まず今年の年貢を取り急ぎ納付するように。もし古い借財を催促する者がいたら、その使いは受けなくてよい。報告があれば指示を出すであろう。

 主に今川氏から見た『岡崎』の帰属について列挙。天文後半から永禄初頭までをまとめたが、その動向は一定ではない。

1548(天文17)年3月11日 不明 織田方に攻囲・接収?

仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候

北条氏康は織田信秀に「岡崎の城がその国から押さえられたので」と書き送る。拠点として失効しているようで、織田方に攻囲か接収された可能性がある。

1550(天文19)年11月19日 今川方 松平広忠が反尾張陣営として在城

先年尾州岡崎取合之刻、対広忠令無沙汰之条、彼神田召放、依為忠節、自去年出置之云々、然者勤相当之神役、可支配之、若先禰宜雖企訴訟、一切不可許容之者也、仍如件、

今川義元は三河国人長田氏に「尾張と岡崎が取合の際、広忠に納税しなかったのであの神田を改易した忠節」とある。

1550(天文19)年?12月2日 不明 高橋方面のことで、奥平監物が着陣

就高橋筋之儀、早速至于岡崎着陣之由候

今川義元は奥平監物に「高橋(衣領)方面のこと、早速岡崎に着陣されたと聞きました」と書状を書く。

1550(天文19)年?12月15日 不明 牧野田三が岡崎方面で奔走

就高橋雑説、自最前岡崎筋御馳走、御陣労察存候、

太原崇孚は牧野田三に「高橋の雑説について、最近岡崎方面で奔走されており、陣地の苦労をお察ししています」と追伸する。

1553(天文22)年3~4月 今川方 紛争地帯と隣接

大村家盛道中記、岡崎は今川方として記述

1554(天文23)年10月15日 今川方 納税先として指定

先規岡崎江令納所本成

三河山中郷の本年貢の納付先として岡崎が登場。

1554(天文23)年11月2日 今川方 糟屋備前守から戸田・匂坂氏に岡崎城番が変更

就今度岡崎在城、長能・宗光両人江弐百五十貫文■令扶助之也、然者糟屋備前守同前諸事可走廻

匂坂長能と戸田宗光が岡崎城番に命じられる。その先任である糟屋備前守と同じく奔走せよと言われる。

1556(弘治2)年 反今川方 足立氏が上野城に退去

去辰年上野属味方刻、勝正同前ニ従岡崎上野城へ相退砌も、既尽粉骨之上、彼城赦免之儀相調之間

1556(弘治2)年に上野城が今川方になった際、足立勝正・甚尉兄弟は岡崎から上野城へ退却して尽力、岡崎城を赦免するよう調整した。岩瀬氏の例にあるように「逆心を打ち明けられる→慌てて近隣の城に退く→後から顕彰される」という流れがこの時代の今川氏でよく見られるパターン。つまり上野が敵から寝返ったのではなく、岡崎の逆心に対して上野は今川方に留まることを選んだと考えると自然である。

1556(弘治2)年2月3日 反今川方? 近隣の上野城で今川方の軍資金が消費される

今度上野城所用

上野城で軍資金が必要な事態が発生する。

1558(弘治4)年2月26日 今川方 城番変更

相止番手如年来之以自力可在城于岡崎之旨

寺部攻囲中の匂坂長能に岡崎城番を免除する旨告知。

1558(永禄元)年4月24日 今川方 広瀬氏を撃退する

去廿四日寺部へ相動之刻、廣瀬人数為寺部合力馳合之処、岡崎并上野人数及一戦砌

寺部城を巡り、岡崎と上野の軍が広瀬氏と交戦する。

1558(永禄元)年閏6月20日 今川方? 雑説が流れる

今度岡崎雑説出来候処、無別儀無事候間

朝比奈泰朝、大樹寺に「今度の岡崎に不穏な噂が流れたところ、別段何事もなく済んだので……」と告げる。

参河国山中新知行之事

右、医王山取出割、就可抽忠節、以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、彼地之事、永不可有相違也、弥可専勲功状如件、

天文十六

八月廿五日

今川義元也 治部大輔判

作手仙千代殿

藤河久兵衛尉殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)

 三河国山中新知行のこと。右は、医王山砦の際、忠節にぬきんでるべきことについて、先の判形をもって給与の上、当国は東西の紛争で時によって変化があるとはいえ、あの地のことは永く相違ないように。ますます勲功を専らにするように。

■年於参河国今橋城、令内通存忠節、任契約之旨、細谷代官并給分■拾貫文令補任之、

右、任雪斎契約之旨、所充行之也、■可抽忠節之状如件、

天文十六

二月三日

治部大輔(花押影)

野々山甚九郎殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(野々山文書)

 先年(?)三河国の今橋城にて、内通し忠節を発揮した。契約内容の通り、細谷の代官職と給地数十貫文を与える。
 右のように雪斎の契約通りに地所を給与する。ますます忠節にぬきんでるように。

今度依忠節、当城扶助員数、代官等為替地、細屋郷可被捕任也、出仕之上御判■■沙汰者也、仍如件、

 天文十五

 十二月十四日

 雪斎 崇孚判(花押影)

 野々山甚九郎殿

右ハ折紙也、

→愛知県史 資料編10「太原崇孚判物写」(野々山文書)

 この度の忠節により、当城へ兵を増派する。代官などの替地として、細谷郷を補任するであろう。出仕の上で判形を沙汰するものである。

去年息千々代・同名親類等依忠節、新地山中七郷充行分[但此内百五十貫文、竹尾平左衛門割分除之、]本知行并遠江国高部給分、弟日近久兵衛尉知行分、同去年配当形之厚分等之事

右、依今度久兵衛尉謀反現形、最前ニ馳来于吉田、子細申分、則実子千々代為人質出置、抽忠節上、抛先非如前々所充行之也、弥可専忠信之状、仍如件、

天文十七戌申年正月廿六日

治部大輔判

奥平監物丞殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)

 去る年、息子の千々代と同姓の親類などの忠節により、新地山中七郷(但しこの内150貫文は竹尾平左衛門割当として除く)。本知行と遠江国高部の給分、弟日近久兵衛尉知行分、同じく去る年配当の形原分などのこと。
 右は、この度久兵衛尉の謀反が露見したことにより、すぐに吉田に行って詳細を報告し、実子千々代を人質として提出した。忠節にぬきんでた上、先の非を投げ打ち、前々のように土地を給与する。いよいよ忠信を専らにするように。

去天文十七年[戊申]年三月十九日於西三河小豆坂尾州衆馳合、最前馬を入、殊ニ殿之時、有我等同心無比類義、感悦之至候、弥可被軍忠事専要候、仍如件、

四月十五日

備中守

松井惣左衛門殿

→愛知県史 資料編10「朝比奈泰能感状写」(松井家文書)

 去る1548(天文17)年3月19日、西三河小豆坂において尾張国が馳せ合った際、前線に馬を入れ、特に殿軍の時、私の同心は比類ない忠義があり、感悦の至りです。ますます軍忠のことが大切でしょう。

去比医王山取立候、普請早出来、各馳走之段注進、誠以悦然候、近年者東西陣労打続候、勲功之至候、仍三州此刻可達本意候、近日可出馬候間、其心得肝要候、謹言、

七月八日

義元(花押)

天野安芸守殿

→愛知県史 資料編10「今川義元書状」(天野文書)

1547(天文16)年に比定。

 以前医王山を防御拠点としました。構築が早く終わり、各自が奔走したことを報告、本当に喜ばしいことです。近年は東西で出陣の労が続いており、勲功の至りです。三河国は今回で本意を達成するように。近く出馬しますので、この心得でいることが大切です。

同名彦九郎自去年春逆心事、沙汰之限也、雖然定勝事、無二存忠節、彦九郎遂成敗段神妙也、為其賞日近郷之事、永充行之了、彼者本知行分野山・河原・寺社領并買得地等、一円為不入所々領掌候也、棟別之事、永令免許之、百姓以下他之被官仁罷出事、令停止之、可為定勝計也、久兵衛尉事、内々可加成敗之処、令欠落之条、不及是非、縦至于後年対此方抽忠節、日近郷之事、成競望雖企訴訟、一切不可許容、定勝本知行之事、是又永不可有相違、親類奥平与七郎及両度致逆心上者、彼諸職之事、為作手領割分之内条、可為定勝計者也、仍如件、

弘治参年

六月廿六日

治部大輔判

奥平監物入道殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書)

 同姓彦九郎が去年春より逆心したことは沙汰の限りである。とはいえ定勝は無二の忠節を持っていることは存じており、彦九郎を成敗したことは神妙である。その賞与に日近郷として末永く給与する。あの者の本知行分の野山・河原・寺社領並びに買得地などは一円を不入として各地掌握して下さい。棟別銭のことは末永く免除します。百姓以下が他の被官となって出た場合はこれを罷免し、定勝だけがなすこと。久兵衛尉のこと、内々に成敗を加えるべきところ、逃亡したとのことで致し方ない。たとえ後年に味方となって忠節にぬきんでたとしても、日近郷のことは競合しようと訴訟を企てることは一切許容しない。定勝の本知行のこと、こちらもまた末永く相違がないように。親類の奥平与七郎が2度の逆心に及んだ上は、彼の諸職のこと、作手内の割当領地については定勝だけがなすこと。