卅人之足軽衆、十騎宛三番ニ積、中三日用意ニ而、西入へ罷越、新井如申可走廻、少も横合非分之儀、自今ニ入耳ニ付者、可成敗者也、仍如件、
丑
正月十五日
三山 奉之
野上 足軽衆中
→戦国遺文 後北条氏編「北条氏邦朱印状」(逸見文書)
1565(永禄8)年に比定。
30人の足軽衆を、10騎ごとに3番編成とし、3日以内で用意して西入へ移動するように。新井が言う通りに奔走せよ。少しの横合や非分でも、聞きつけたら成敗するだろう。
卅人之足軽衆、十騎宛三番ニ積、中三日用意ニ而、西入へ罷越、新井如申可走廻、少も横合非分之儀、自今ニ入耳ニ付者、可成敗者也、仍如件、
丑
正月十五日
三山 奉之
野上 足軽衆中
→戦国遺文 後北条氏編「北条氏邦朱印状」(逸見文書)
1565(永禄8)年に比定。
30人の足軽衆を、10騎ごとに3番編成とし、3日以内で用意して西入へ移動するように。新井が言う通りに奔走せよ。少しの横合や非分でも、聞きつけたら成敗するだろう。
史料の検討から大藤隊が約500名で構成されていたと確定した。とはいえ、軍記や講談、一部書状内での内容から「戦国の軍隊は千~万単位で機能していた」という概念から考えると、精鋭の足軽衆が500名というのは少な過ぎると思われる。そこで、同時代の一次史料で実数を記したと思われる案件(徴兵数の検査、味方内での連絡など)を更に検討してみる。
上記から、戦略単位の兵員数は300~600名、戦術的には50名からの配置が例として存在することが判明した。
さらに、越後方が小田原城を攻囲した合戦で、後北条氏の主力は大藤隊だったのかという疑問も検討する。大藤隊は少数でゲリラ戦を行なう臨時措置の戦術単位だったとも考えられるためだ。
1561(永禄4)年時点で、北条本家(氏康・氏政)以外で大規模な軍団を構成できたと思われるのは、小机の北条氏尭・玉縄の北条綱成・久野の北条宗哲・蒔田の吉良氏朝・江戸の遠山氏が想定できる。このうち、北条氏尭は川越(畑氏宛氏尭書状)、吉良氏朝は玉縄(高橋氏宛氏康書状)、北条宗哲は小田原(大藤氏宛書状)に籠城している。江戸の遠山氏は所在が不明だが、氏康が「河越・江戸をはじめとする7~8箇所は無事だった」(金剛王院宛書状)とあることから、江戸に籠城していたのだろう。
後に活躍することとなる氏政の兄弟衆はまだ幼弱で、氏政次弟の氏照がようやく朱印状で指揮している程度に過ぎない(小田野氏宛朱印状)。
不可解なのは北条綱成で、氏康は彼が遠くに出征していたと述べている(箱根別当宛書状)。事実、史料には登場しない。綱成が出征していたのは陸奥国白河か三河国衣郡だと思われるが、この件は別に精査する。
書状が全て遺されているとは思えないことから、大藤隊以外の存在も否定はできない。同程度の兵数で構成された別の隊が存在していた可能性もある。しかし、「大藤を招集したので城から出るな」と氏政が言明したこと(某宛書状)を考慮すると、大藤隊を戦闘能力の高い機動部隊とし、他は籠城させるという後北条氏の作戦が存在したと判る。これは1561(永禄4)年時の作戦成功を受けての措置だろうから、この時も大藤隊が主力機動部隊だったと推測できるだろう。
御直札被下候、謹而奉拝見候、仍武田信玄被除候付而、早速御迎雖可被進置候、信玄無相違被除候付而、敵之動之様子見合、其上御迎可被進置段ニ付而、只今迄被致延引候、内ゝ拙者事申請候而、此度候間、御迎ニ可馳参覚悟候処ニ、信玄自身相州筋へ被罷出候付而、余人者共ハ、何も若輩故、拙者罷越、味方之地之備可申付段、今日未明ニ被申付候間、無是非、此度ハ不致参陣候、誠以無念至極候、雖然信玄相州筋へ之動之間、早速此間ニ引取可申段付而、御迎被進置候、就中松平事、是又御計策故、無別条、其御請候、既ニ手堅証人共進置段、被仰越候、是又珍重候、猶巨細者、御厨伯耆口上ニ申上候、以此旨可預御披露候、恐惶謹言、
五月十一日
北条左衛門大夫
綱成(花押)
進上 三浦左京亮殿
→戦国遺文 後北条氏編「北条綱成書状写」(三浦文書)
1569(永禄12)年に比定。
書状を直接いただき、謹んで拝見しました。武田信玄を退けられました。ついては、早速お迎えするべきところですが、信玄が間違いなく退けられたかについて、敵の状況を見て、それからお迎えしようと考えて現在まで延期なさっています。内々に私が申し請けて、この度ですから、お迎えに参上しようと決心していましたところに、信玄自身が相模国方面に出てきたことで、その他の者は何れも若輩であったため私が出動して味方の領地の防備を指示するよう、本日未明に通達がありました。是非もなく、この度は参陣いたしません。本当に無念の極みです。ではありますが、信玄が相模国へ出撃しているので早速この間に引き取るよう準備して迎えを出します。とりわけ松平のことは、これもまた計策により別条なく受諾、すでに手堅く証人たちも出ているとのご連絡。こちらも珍重です。さらに詳細を御厨伯耆守より口頭で申します。この旨をご披露下さい。
知行方之儀、如先代為不入進候、於公私之内も別而頼母敷思召候間、可被守立事、専一候、我ゝ若輩ニ候之間、如此候、粉骨尽就走廻者、弥ゝ可引立候、為後日仍如件、
永禄四 辛酉 年
二月吉日
氏朝(花押)
江戸彦五郎殿
→-戦国遺文 後北条氏編「吉良氏朝書状写」(江戸文書)
知行のことは、先代のように不入とします。公私にわたり頼もしく思っていますので、守り立てて下さるのが専一です。私は若輩なのでこのようになっています。粉骨を尽くして活躍すれば、いよいよ引き立てましょう。後日のために文書にしました。
鶴岡并御門前中横合非分令停止事、
右、違犯之族之者、註交名、急度可有註進之状、仍如件
永禄四年 辛酉
三月五日
康成(花押)
鶴岡 御院家中
→-戦国遺文 後北条氏編「北条康成(氏繁)制札」(鶴岡八幡宮文書)
鶴岡八幡とその門前で、横合・非分をしないこと。右のことに違反した者は、氏名を記述し、取り急ぎ報告書を送るように。
内藤衆何十騎、かち者いか程馳集候、着到を付、急度可申越、於今度諸人不走廻而不叶候、自戦與云、為御国與云、無昼夜嫌、稼可走廻申、内藤同心衆普請稼候者、無用捨可記上申、只今役所普請ニ極候、昼夜共ニ可致之、猶遠山新三郎ニ被仰出者也、仍状如件、
巳
二月十三日
野口喜兵衛殿
矢部新三殿
井上三郎衛門殿
内藤一騎合衆
→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康朱印状」(富士浅間人者文書)
1569(永禄12)年に比定。
内藤衆が何十騎で徒歩の者が何名集まるのか、着到を作成して取り急ぎ連絡するように。今度は様々な人が奔走しなければ成功しないだろう。『自戦』といい、国のためといい、昼夜を厭わず奔走して働くように。内藤の同心衆で普請担当は容赦なくリストに上げなさい。現在は役所の普請が大詰めで昼夜を分かたず行なうべきである。さらに遠山新三郎が命令を伝えるだろう。
通説を採用した歴史解説でよく書かれているのが「合戦時に参集した人数の大半は農民を中心にした非戦闘員」という記述である。その根拠が判らなかったので、1561(永禄4)年の大藤隊を調べる際も同時代史料で検討する。
正規兵員数514名の大藤隊の陣夫だが、実は誰も該当者がおらず大藤隊が強制徴発していた気配が濃厚である。陣夫の扱いを定める朱印状がそれを物語っている。いくつか史料を掲載しているが、その後も坂間郷と足軽衆の間では陣夫徴発で揉めていた。
そして人数は27~33疋。後北条氏が大藤隊割り当て数を列記して最後に「33疋」と明記しているものの、実際に数値を足すと27疋でしかない。33疋が正しいのだとしても、戦闘員の6.42%にしかならない。
兵糧関係の書状によると、22人が2ヶ月で20俵12升を消費する。1俵=4斗=40升だから812升÷22人÷60日=約0.6升=約6合が兵員1名の1日の消費量となる。大藤隊が半月稼動すると、0.6升×535名(兵員+陣夫)×15日=4815升=約482斗=約120.5俵。大八車があったとして車載量としては6俵が限界だと想定できるので20台が必要となる。33疋であれば大八車の台数よりは多いので何とかこなせるだろう。とはいえ、この他にも必要な物資が存在するのは必至だから、牛馬を使ったとしてもかなりのオーバーワークとなる。しかも前線勤務である。忌避して当然と思われる。
土木建築に陣夫を使った印象も強いが、そうではない可能性が高い。北条氏康が国府台合戦直前に出した召集状によると「兵粮無調候者、当地ニて可借候、自元三日用意ニ候間、陣夫一人も不召連候」=「兵糧はこの陣地で用意して貸し出す。3日の用意で臨んでいるので陣夫は一人も連れて来なくてよい」と明言している。つまり、陣夫免除の条件として「土木作業は不要」という項目はない。また、兵糧は自弁、陣夫は余程の例外措置を大名が明言しない限りは絶対に連れて来なければならない、ということが判る。3日以内の戦闘だから陣夫は不要ということは、5日程度から陣夫は絶対必要な存在になるのだろう。
今川系の史料でも郷当たり1~2人程度で同じ規模になる。ひとまず、非戦闘員を大量に確保した同時代史料が出てくるまでは、戦闘員が軍勢の圧倒的多数を占めていたと考えることとする。
越後方と激戦を繰り広げた大藤隊の兵員数を検証する。
年未詳の大藤隊の人数調査結果と1559(永禄2)年成立と伝えられる『役帳』における諸足軽衆の役高を表にまとめた。
氏名 | 役高(貫文) | 規定の人数 | 1人辺りの貫文 | 実際の人数 | 1人辺りの貫文 |
大藤式部丞 | 320.7 | 193 | 1.66 | 149 | 2.15 |
加藤四郎左衛門 | 33.5 | n/a | n/a | n/a | n/a |
大形 | 127.43 | n/a | n/a | n/a | n/a |
玉井帯刀左衛門 | 152.63 | n/a | n/a | n/a | n/a |
当麻三人衆 | 125 | n/a | n/a | n/a | n/a |
大谷彦次郎 | 143.432 | 54 | 2.65 | 26 | 5.52 |
近藤隼人佑 | 75 | n/a | n/a | n/a | n/a |
有滝母 | 10.96 | n/a | n/a | n/a | n/a |
清田 | 27.468 | n/a | n/a | n/a | n/a |
伊波 | 362.248 | n/a | n/a | n/a | n/a |
多米新左衛門 | 184.814 | 81 | 2.28 | 50 | 3.7 |
富島 | 262.607 | 74 | 3.55 | 39 | 6.73 |
富島彦左衛門 | 29.525 | n/a | n/a | n/a | n/a |
深井 | 69.068 | n/a | n/a | n/a | n/a |
荒川 | 146.423 | 60 | 2.44 | 38 | 3.85 |
磯彦七郎 | 50 | 30 | 1.67 | 23 | 2.17 |
山田 | n/a | 22 | n/a | 22 | n/a |
総数 | 2120.805 | 514 | 347 | ||
平均 | 132.550 | 73.43 | 2.38 | 49.57 | 4.02 |
『役帳』で「此内 百九拾一貫文 大藤衆 六十七人分 一人三貫文宛」と書かれているように足軽の場合は1人で3貫文が相場だったようだが、実際には結構ずれていたようである。また、定員数に対して35%程度しか人数が集められていない。人数チェックが1561(永禄4)年の秋に行なわれたとすると、越後方との激しい戦闘で目減りしたことになる。文中で武田氏と対談すると書かれているので、1560(永禄3)年~1568(永禄11)年の間に比定されるが、私見では1561(永禄4)年秋が最有力であると考えている。武田晴信書状が9月18日に「今川・北条と一緒に利根川に出撃する」と予告している。その傍ら、某宛の北条家朱印状では「大藤が出撃したので城から出るな」と指示している。この文書は年次未詳なので1561(永禄4)年とは限らないのだが、何れにせよ後北条氏の作戦として「籠城策+大藤遊撃隊」という選択が出来たのは1561(永禄4)年以後のことだろう。
更に考えると、死傷者による損耗率が激しかったのであれば、着到で指示するような一方的な内容にはならない可能性もある。この着到指示書の文意は「本来必要である員数を理由なくサボタージュした」という色が強い。大藤氏とその部下の死傷率は高くなく、遊撃戦での勝利を称えて褒美を下したのに召集率が悪かった……というのが一番自然な気がする。
大藤隊が参戦する前に、既に越後軍は小田原近くまで達していた模様である。1561(永禄4)年時の文書から以下の事柄が判る。
この動きをマップに貼ってみたが、大槻→曽我山→沼田→水之尾→小田原城という移動経路は非常に自然であり、越後方の追尾を避け不規則な移動を行なった形跡は見られない。むしろ、海岸沿いの敵本軍を避けつつ、最短距離で小田原入城を果たそうという意図が感じられる。
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書状は緊迫した状況で最小限の情報のみを伝えているため、行間が抜けている。ここを埋めて考えてみる。
以上の事柄と前項を考えて、考察を試みる。
同時代の一次史料だと、今川方の兵数を明確に記載した書状は見つけられていない。参考として、地域と大名は異なるが史料が多数残る後北条氏の場合を取り上げる。特に参考となるのは、戦闘専門の集団と思われる大藤氏だ。この足軽集団は『所領役帳』にも諸足軽衆として記載されている。
1552(天文21)年12月に大藤家の家督を継いだ与七は、大藤金谷斎の末子だった(北条氏康書状)。彼は結城氏、今川氏、武田氏への援軍として起用されて活躍している。最後は武田氏への援軍として二俣城を攻撃中、鉄砲に当たって亡くなる(
武田勝頼書状)。
この大藤氏は数々の文書を後世に残しており、感状や着到状などから部隊の詳細を詰められるだろう。まず、この部隊の概要を追いつつ、最も活躍したと思われる1561(永禄4)年の小田原攻囲戦の動向を検証する。この時、後北条氏は未曾有の軍事的危機に遭遇する。それは今川義元が討ち死にした1560(永禄3)年5月19日から僅か4ヵ月後の9月23日。関東公方足利義氏が那須氏に出した書状から始まる。ここで義氏は、越後国の軍勢が沼田口に進軍してきたこと、北条氏康が出撃したので上野国の防衛は大丈夫だが、万一に備え佐竹義昭に参陣してほしいことを告げる。
その後の展開を時系列で並べてみる。
10月までは川越から上野国奪回を目指していた氏康が、年明けには江戸城まで後退。さらに3月に入ると相模の奥深くまで侵攻されてしまう。
史料から事情を探ってみると、那須氏宛書状、真壁氏宛書状から、越後方が侵攻してくることを各氏が後北条氏・関東公方に通報していることが伺える。それを当て込んで氏康は川越まで進撃した。だが、房総で不穏な動きがあり江戸まで退く。そして越後方に属す勢力が拡大、氏康は小田原に籠城するほかなかったと推測できる。拠点防衛を徹底するため、蒔田(武蔵吉良)氏を玉縄城に収容している。後に氏康が出した書状に、この時の窮状を述べたものがある。
■箱根別当への書状
太田美濃守・成田下総守が離反。
遠国の紛争を鎮めるため北条左衛門大夫などの主力を派遣していた。
このため手元の兵数が足りず籠城しか手段がなかった。
■金剛王院への書状
正木など関東の弓取が残らず攻めてきた。
武蔵・相模の城では江戸・河越など7~8箇所が無事だった。
関東が一気に越後方になびいている状況の中、後北条方が直轄の城に逼塞していく様子が判る。主力がどこかに遠征しているのも響いているだろう。長尾景虎の作戦は見事に奏功していく。
そして、この状況で大藤隊が動き始める……。