通説を採用した歴史解説でよく書かれているのが「合戦時に参集した人数の大半は農民を中心にした非戦闘員」という記述である。その根拠が判らなかったので、1561(永禄4)年の大藤隊を調べる際も同時代史料で検討する。
正規兵員数514名の大藤隊の陣夫だが、実は誰も該当者がおらず大藤隊が強制徴発していた気配が濃厚である。陣夫の扱いを定める朱印状がそれを物語っている。いくつか史料を掲載しているが、その後も坂間郷と足軽衆の間では陣夫徴発で揉めていた。
そして人数は27~33疋。後北条氏が大藤隊割り当て数を列記して最後に「33疋」と明記しているものの、実際に数値を足すと27疋でしかない。33疋が正しいのだとしても、戦闘員の6.42%にしかならない。
兵糧関係の書状によると、22人が2ヶ月で20俵12升を消費する。1俵=4斗=40升だから812升÷22人÷60日=約0.6升=約6合が兵員1名の1日の消費量となる。大藤隊が半月稼動すると、0.6升×535名(兵員+陣夫)×15日=4815升=約482斗=約120.5俵。大八車があったとして車載量としては6俵が限界だと想定できるので20台が必要となる。33疋であれば大八車の台数よりは多いので何とかこなせるだろう。とはいえ、この他にも必要な物資が存在するのは必至だから、牛馬を使ったとしてもかなりのオーバーワークとなる。しかも前線勤務である。忌避して当然と思われる。
土木建築に陣夫を使った印象も強いが、そうではない可能性が高い。北条氏康が国府台合戦直前に出した召集状によると「兵粮無調候者、当地ニて可借候、自元三日用意ニ候間、陣夫一人も不召連候」=「兵糧はこの陣地で用意して貸し出す。3日の用意で臨んでいるので陣夫は一人も連れて来なくてよい」と明言している。つまり、陣夫免除の条件として「土木作業は不要」という項目はない。また、兵糧は自弁、陣夫は余程の例外措置を大名が明言しない限りは絶対に連れて来なければならない、ということが判る。3日以内の戦闘だから陣夫は不要ということは、5日程度から陣夫は絶対必要な存在になるのだろう。
今川系の史料でも郷当たり1~2人程度で同じ規模になる。ひとまず、非戦闘員を大量に確保した同時代史料が出てくるまでは、戦闘員が軍勢の圧倒的多数を占めていたと考えることとする。