『中世の巨大地震 』(歴史文化ライブラリー・矢田 俊文著)を読了。1498(明応7)年の地震が比較的詳しく書かれている。が、中世の震災は殆ど史料がないことが確認できただけだった。貞観の大地震はさておき、書状がある程度出てくる明応年間でも厳しいようだ。今日の公家が日記に載せているものの、これらの史料は交際用の備忘録という性格もあり、必要最小限の表現に留まることが多い。

判ったことをとりあえず覚書。

  1. 京での揺れは激しかったものの、被害はなかった模様
  2. 奈良は興福寺の地蔵堂が崩落した程度
  3. 伊勢の大塩村は津波で塩田が破壊され、家屋180軒のうち100軒が流された
  4. 伊勢の安濃津は津波で壊滅。阿漕浦という河川と海に挟まれた場所に位置
  5. 同じく安濃津、1522(大永2)年に連歌師宗長が訪れた際は無人の廃墟だった
  6. 駿河の小川湊は津波で壊滅し別の場所に復興(河川と海に挟まれた立地)
  7. 遠江の元島遺跡(見附宿の南)では液状化。潟湖に位置
  8. 浜名湖と遠州灘に挟まれた場所にあった橋本は地震と津波で壊滅(河川と海・湖に挟まれた立地)
  9. 浜名川の流路が変わり、浜名湖が汽水湖となる
  10. 紀伊の和歌川の流路が変わる(津波が原因か)

このほかに、遠江国掛塚湊も津波で被害を受けたようだ。また、安濃津はその後場所を移して現在の津市の位置に復興する。旧来の場所では、宝永地震後にようやく居住が見られる。

中世の文献にはかなり制約が多い。近世も後半になるとようやく個人の克明な記録が見られるようになる。地震に関する著作はまだまだ読みはじめなので、とりあえず他を読み進めようと思う。

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