我流稗史

検証b03:大藤隊の構成

 越後方と激戦を繰り広げた大藤隊の兵員数を検証する。  年未詳の『役帳』における諸足軽衆の役高を表にまとめた。 氏名 役高(貫文) 規定の人数 1人辺りの貫文 実際の人数 1人辺りの貫文 大藤式部丞 320.7 193 検証b03:大藤隊の構成

検証a14:織備懇望の内容

 今川義元が送った明眼寺と阿部与左衛門宛書状にて、刈谷城の赦免について織田備後守が懇望したとある。これをどう考えるかで、刈谷城が今川方だったか織田方だったかが分かれる。今川方が刈谷城の攻囲を解いて織田方の状態が継続したの 検証a14:織備懇望の内容

検証a13:刈谷城の謎

松井氏功績表を読めばある程度の時期が判明する。つまり、小豆坂合戦と西条攻略の間である。 小豆坂合戦は1548(天文17)年3月19日。西郷弾正左衛門尉宛感状で判る。西条攻略は、大村弥三郎宛感状の1551(天文20)年12 検証a13:刈谷城の謎

検証a12:鳴海開城はいつか?

岡部五郎兵衛尉が鳴海を出て、合戦が収束したのはいつかを考察する。まず、各文書を時系列でまとめてみる。  合戦後最も早い文書は、5月22日に三浦内匠助が松井山城守に宛てたものだ。「去十九日、於尾州口不慮之御仕合、無是非次第 検証a12:鳴海開城はいつか?

検証a11:各人物の所在

1560(永禄3)年5月19日に確認できる関係者所在を挙げてみた。 位置が完全に確認できる関係者 岡部五郎兵衛尉  鳴海城 鵜殿十郎三郎   大高口 水野藤九郎    刈谷城 位置詳細不明だが合戦への関与が確実な関係者 検証a11:各人物の所在