検証b03:大藤隊の構成
越後方と激戦を繰り広げた大藤隊の兵員数を検証する。 年未詳の『役帳』における諸足軽衆の役高を表にまとめた。 氏名 役高(貫文) 規定の人数 1人辺りの貫文 実際の人数 1人辺りの貫文 大藤式部丞 320.7 193 …
越後方と激戦を繰り広げた大藤隊の兵員数を検証する。 年未詳の『役帳』における諸足軽衆の役高を表にまとめた。 氏名 役高(貫文) 規定の人数 1人辺りの貫文 実際の人数 1人辺りの貫文 大藤式部丞 320.7 193 …
大藤隊が参戦する前に、既に越後軍は小田原近くまで達していた模様である。1561(永禄4)年時の文書から以下の事柄が判る。 3月3日 越後衆が当麻宿に着陣していると報告(氏照書状) 3月10日 小畑源太郎が籠城戦で活躍し …
同時代の一次史料だと、今川方の兵数を明確に記載した書状は見つけられていない。参考として、地域と大名は異なるが史料が多数残る後北条氏の場合を取り上げる。特に参考となるのは、戦闘専門の集団と思われる大藤氏だ。この足軽集団は …
『日本城郭大系』には、知多半島西岸にも「苅屋城」が記載されている。 苅屋城 常滑市苅屋字城下 衣浦湾に臨み、鵜飼福元の居城と伝えられる。 という記述であるが、臨んでいるのは衣浦ではなく伊勢湾となっている。常滑市苅屋 …
今川義元が送った明眼寺と阿部与左衛門宛書状にて、刈谷城の赦免について織田備後守が懇望したとある。これをどう考えるかで、刈谷城が今川方だったか織田方だったかが分かれる。今川方が刈谷城の攻囲を解いて織田方の状態が継続したの …
松井氏功績表を読めばある程度の時期が判明する。つまり、小豆坂合戦と西条攻略の間である。 小豆坂合戦は1548(天文17)年3月19日。西郷弾正左衛門尉宛感状で判る。西条攻略は、大村弥三郎宛感状の1551(天文20)年12 …
岡部五郎兵衛尉が鳴海を出て、合戦が収束したのはいつかを考察する。まず、各文書を時系列でまとめてみる。 合戦後最も早い文書は、5月22日に三浦内匠助が松井山城守に宛てたものだ。「去十九日、於尾州口不慮之御仕合、無是非次第 …
1560(永禄3)年5月19日に確認できる関係者所在を挙げてみた。 位置が完全に確認できる関係者 岡部五郎兵衛尉 鳴海城 鵜殿十郎三郎 大高口 水野藤九郎 刈谷城 位置詳細不明だが合戦への関与が確実な関係者 …
日付から潮汐・月齢を考えると、織田方と今川方の作戦にはどのような違いがあるだろうか。 笠寺城中に出した今川義元感状によると、1558(永禄元)年の2月28日に織田弾正忠の夜襲があったことが判る。この日付はグレゴリオ …
大高城への補給が各月の19日に行なわれている点は検証a07で述べた。では、大高城はどのような状況にあったのか。鵜殿十郎三郎宛書状では、この時合戦があり負傷者が出ていることが判る。大高城付近では白兵戦も含めた交戦が行なわ …