信長公記の信憑性検証 付記
『信長公記』の内容を探るため、『信長公記を読む』という書籍を参照したが、若干気になる箇所を発見したので備忘しておく。同書40頁にて太田牛一の来歴が記載されている。 太田牛一は、『信長公記』池田家文庫本巻十三の奥書に「慶 …
『信長公記』の内容を探るため、『信長公記を読む』という書籍を参照したが、若干気になる箇所を発見したので備忘しておく。同書40頁にて太田牛一の来歴が記載されている。 太田牛一は、『信長公記』池田家文庫本巻十三の奥書に「慶 …
物語空間における破綻は既に開陳した通りだが、現在の世上で『信長公記』が1級史料として流布している以上、本サイトでは何故史料として扱わないかを明言しておく必要があるだろう。虚構としてすら破綻していることは示したので今更理 …
2回に分けて『信長公記』で信憑性に疑念のある点を検証したが、物語として破綻していることは確実となった。筆者は何故このような破綻を招いてしまったのだろうか。 ここから先は推測である。但し、本叙述が史実を忠実に描写したと …
前回までに挙げた要因を素直に受け取り、合戦までのあらましを再構築してみる。 圧倒的に優勢な兵力を使って、義元は尾張国沓掛に進んだ。対する信長は清須から動かず、前線部将から攻撃予測が来ても作戦会議を行なわなかった。この …
『信長公記』首巻「今川義元討死の事」は2段で構成される。第1段はいわゆる『桶狭間合戦』の叙述、第2段は因果説明(山口左馬助を誅殺した義元が左馬助の元所領で敗死したという点)と合戦後日譚である。 このうち、第1段(以下 …
刈谷城を今川義元が『赦免』した件について、『赦免』とはどのような状況を指すのか、収集した書状を元に考察を行なってみる。 今川氏文書で該当するものは以下の通り。 01 今川義元、足立右馬助が岡崎赦免に奔走した功績を褒める …
GoogleMapを利用した、桶狭間関連文書で記述された地点の一覧をページとして追加した。コメント付けが一部のみとなっており未完成であるものの、以後の参考となるよう掲示し、適宜コメントを追加する。 このマップで判明し …
1561(永禄4)年3月に、後北条氏は越後方を主力とする軍勢の攻撃によって本拠地小田原を攻囲されるという危機に見舞われた。後に、北条氏康は「左衛門大夫が不在で兵が集まらなかった」とコメントしている(北条氏康書状がポイン …
史料の検討から大藤隊が約500名で構成されていたと確定した。とはいえ、軍記や講談、一部書状内での内容から「戦国の軍隊は千~万単位で機能していた」という概念から考えると、精鋭の足軽衆が500名というのは少な過ぎると思われ …
通説を採用した歴史解説でよく書かれているのが「合戦時に参集した人数の大半は農民を中心にした非戦闘員」という記述である。その根拠が判らなかったので、1561(永禄4)年の大藤隊を調べる際も同時代史料で検討する。 正規兵 …