以前にアップした菅沼伊賀宛の今川義元判物写にて、記事見出しとして「今川義元、三河国菅沼伊賀の寝返りを賞し、知行を安堵する」としていた。当時の私の解釈では、敵方に既にあった菅沼伊賀が、今川方についたと考えていた。ところが、原文を詳細に見ると、いくつか疑問が出てきたため検討して訂正しようと思う。

年来同名三郎左衛門尉、同織部丞・同新左衛門尉令同意逆心之儀、

 「年来」とあるので、この文書が発行された1553(天文22)年より複数年前、少なくとも天文19年以前からという意味になるだろう。菅沼一族の三郎左衛門尉・織部丞・新左衛門尉が主語になる。「令」を純粋な使役と捉えると、伊賀がこの3名を逆心に同意させたことになる。しかし、これまで見たようにこの時代の「令」は他者の行動を指したり、「させていただく」的な謙譲語として使われることが多い。この場合だと、3名の行動を指すだろう。彼らは逆心に同意した、ということだ。「之儀」でとりまとめて次の文に続いている。

先年奥平八郎兵衛尉為訴人申出之上、

 前文の事柄を、「先年」というから前年より前の天文20年以前に、奥平八郎兵衛尉が申し出ている。「訴人」は原告を意味する。「為訴人」を、「訴人となして」と読むと、八郎兵衛尉を訴人としたのは菅沼伊賀だと断定できる。というよりも、ここで伊賀が主語に立たないと、「之上」が意味としておかしくなる。八郎兵衛尉が誰の指示でもなく訴人として立ったのなら、次文での主語は伊賀となるため、それを切り替えるべく「之上」ではなく「之処」となる筈だ。

今度林左京進令相談、為帰忠以証文言上、甚以忠節之至也、

 「菅沼の3名が逆心に何年も同意していた」という訴えを奥平八郎左衛門尉にさせた上で、その2年以上後に菅沼伊賀は林左京進に相談する。そして、返り忠を明言して忠誠を誓う証文を提出する。義元はこれを忠節の至りとしている。返り忠ということは、三郎左衛門尉ら3名の何れかは伊賀の主筋に当たる。

 実は、このような状況は東条松平氏にも発生していた。1551(天文20)年12月2日に発生が告げられる。

今川氏家臣、松平甚太郎に甚二郎領地の継承を安堵する

 甚太郎の兄である甚二郎が「別儀」となったので、跡を甚太郎に継がせようとしている。その直後の11日、義元が2通の文書を発行する。松井左近尉への「今度甚二郎逆心之儀訴出之旨、忠節之至也」と、松平甚太郎への「今度兄甚二郎構逆心、敵同意之処、為返忠申出之段、甚以神妙也」という言葉は、菅沼伊賀への書状に近い。

今川義元、松井左近尉に、松平甚二郎逆心時の対応を賞し、甚太郎同心として奉公するよう指示

今川義元、松平甚太郎に兄甚二郎の所領を与える

 松平甚二郎事件では、弟の甚太郎と家臣である松井左近尉は甚二郎が「別儀」に及ぶことに反対していた。ここの別儀はほぼ逆心と同じで、今川方から敵方へ乗り換えることを指すと考えて間違いない。そして、その事実は通報したのが松井左近尉、返り忠をなしたのが甚太郎である。それぞれを、奥平八郎兵衛尉、菅沼伊賀に置き換えると2つの事件はほぼ同じ進展だったと判る。

 但し、時系列は大きく異なる。松平甚二郎事件では12月初旬であっという間に済んでいるが、菅沼三郎左衛門尉事件では、訴人が立ったのが2年以上も前の話で、しかもその訴えには「年来=前々から」とあるため、天文16年くらいまで遡っての訴えになるだろう。今川氏が「田原本意」を遂げて三河に侵入してきた頃と同じである。訴状としては時間が経過し過ぎているように見える。

 一方、この事件が発覚した天文22年というのは、今川氏が東尾張までも席捲した最盛期に当たる。その後弘治・永禄になると戦線は膠着するから、義元が最も自信を持っていたのはこのぐらいの年だと考えられる。尾張領有が現実的になった今川氏は、後顧の憂いを断つために、動静の怪しい三河国衆を粛清した可能性が高いように思う。何故なら、菅沼氏の反今川方が行動に出るのは弘治年間以降であり、むしろこの事件によって分裂したと思われるからである。

 上記訂正を受けて、下記ページを修正した

鳴海原合戦関連時系列
検証a22:北方戦線(奥三河)を中心とした時系列
今川義元、三河国菅沼伊賀が同三郎左衛門尉らを訴えたことを賞し、知行を安堵する

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