北条氏政が、実母瑞渓院殿の看病を清水上野入道(康英)に命じたとされる書状だが、少しおかしな点がある。

「御太方御煩、経年月大病候間」御太方(大方)は瑞渓院殿を指す。年月を経て大病しましたので、とあるが瑞渓院殿が夫氏康と同じ年齢だと仮定すると1515(永正12)年生まれなので比定される1575(天正3)年時には満60歳。当時としては高齢なので問題はない。「更難治候」はさらに治しがたく、となってこちらもすんなり読める。

「土用中極ゝ養性候」とあるが、1575(天正3)年の夏の土用は旧暦の6月4日~21日。書状の日付は23日なので、一昨日までの状態を告げている。この間はとてもよく養生した、ということだ。

 この次、「無少験気候」の「験気」は病状が快方に向かうこと。「少しの験気もなく候」となり好転が見られないことになる。

 難解で奇妙に感じるのが最後の部分だ。上までの文を読む限り、氏政は母の病状を説明している。老齢期の病気で治りにくいこと、土用の間は養生していたこと、快方の兆しがないこと。これらは遠方にいる清水上野入道への通信文であると思われる。ところが、「此上も勿論於保養者、少も不足有間敷候」と続いている。「この上ももちろん、保養においては少しも不足あるまじく候」という一文を上野入道への指示と考えると、瑞渓院殿が上野入道の在所(伊豆)で療養しているように受け取れる。『家臣団辞典』と『年表』はそのように解釈しているが、どうだろうか。

 氏政は「由」や「云」という伝聞表記を用いていない。つまり、母親の状態を細かく実見していると解釈できる。病人は氏政の手元にいるのに、書状で伝えなければならない距離にいる上野入道に「少しの不足もないように」という指示を出すだろうか。最後の最後で「有間敷」が入ったために「清水上野入道への指示」という予断が入って上記2書も解釈全体がおかしくなったという考え方もできるだろう。

 その場合、「有間敷」はどう考えればよいのだろう。瑞渓院殿は土用の間小田原にいて、その後自身の保養を命じた書状と共に伊豆へ移動したのだろうか。6月23日はグレゴリオ暦でいう8月9日に当たり、暑気が厳しく重病人の移動には適さないし、小田原から伊豆へは山越えか海路となる。彼女は小田原に居続けたと考えるべきだ。

 逆に上野入道を呼びつける方法もあるがこの文面に指示はないため、断定はできない。

 指示ではなく「少しの不足もあってはならないのです」という通信文だと解釈もできる。しかしそれだと、今度は氏政が何を言いたかったのか判らなくなる。返信ではないようなので、上野入道が瑞渓院殿の容態を問い合わせ、その返事を書いた訳でもなさそうだ。

 他の史料による裏づけがないのでこれは推測でしかないが、小田原から離れた場所へ瑞渓院殿が参加する用事があったのではないか。それを仕切っていたのが上野入道だった。ところが、病状がそれを許さず、氏政はぎりぎりまで待って上野入道に不参加を伝えた。恐らくそれは、単に瑞渓院殿の私的な案件だったと思われる。氏政は不参加に伴う処置を指示していないからだ。瑞渓院殿が行かないなら自然と沙汰止みになるような事柄だったのだろう。清水氏が関係している事から、三嶋大社への願掛けだった可能性がある。

 この後の文書をいくつか採集して、引き続き考察を進めてみよう。

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