戦場を指す言葉として、「地名+口・表」がある。時代別国語辞典によると、以下のように定義されている。

2-5 地名につけて、そこへの出入り口に当たることを示す。

2-2 戦場で、直接敵と戦う前線。陣や隊列の先頭。

 アップした用例から考えて、この定義で合っているかを調べてみよう。

形部口より気賀へ働候衆七八百
殊於河窪口伏兵砌
其上於平方口
於嵩山市場口長沢
去年五月廿八日富永口へ各相動引退候刻
今度当口指立人数知久・下条・松房・市田被加退治候
諸口御味方相調
於土居口合戦被討捕山田惣三郎
早ゝ千喜良口へ被引出可給候
其口之儀、悉皆任入候
仍当口之様躰
下総口之事
就越国之凶徒沼田口令越山
去五月十九日於尾州大高口
於当国興国寺口今沢
早ゝ当口へ可移候
作手筋諸口苅田動之儀申付之

 『口』の場合は、地名と密接に関係しており、どれも戦闘と関係している。既に臨戦態勢に入っているか、軍事的緊張状態にあると定義してよさそうだ。指定可能な範囲は狭く、1つの作戦で複数分立しているケースも見られる(諸口)。表の場合「諸表」とは言わない。拠点防御と密接に関係していたのだろう。

其表之儀、本庄逆心付而、去初冬ヨリ御在陣
安点良表江国中衆出勢与相見候
其表之御備具披露御報可畏入候
仍其表遂日御利運之由
其表相替子細無之候哉
此表皆ゝ同心之者共、可申聞候
然者其表之事、弥馳走可為祝着候
先以其表無異儀候由
広瀬領償之儀一円可申付、但年来伊保梅坪表江令扶助分者可除之
今般佐竹義重向于当表動候処
来年西表与至于弓矢者
仍興国寺表へ遣人衆
弥其表之儀、馳走可為祝着候
敵信州表江就罷出候
此表者焼動迄之事候条

 こちらも同じく、軍事的緊張を前提としている。ただ、「口」よりは漠然とした範囲を示しているようだ。「西表」と方角と組み合わせているため、現代語に置き換えるならば、「~のほう」や「~方面」という訳語になるだろう。

 まとめるならば、「表」が広くあって、その下に狭く「口」があるという関係になると想像されるが、管見の限りではそのような用例は見られず、両語は別々に語られている。この点の解明は課題である。

急度

 読み方は「きっと」で確定しているものの、現代語とは異なり「必ずや」というよりは、「速やかに」の意味があるように思われる。以下、文書を確認する。
1 文頭に存在し「取り急ぎ」といった意図で使われているであろうもの

  • 急度以使申候
  • 急度註進申候
  • 急度申候
  • 急度申遣候
  • 急度令申候
  • 急度染一筆候
  • 急度捧愚書候
  • 急度令啓上候
  • 急度令馳一簡候
  • 急度馳筆候

2 文中に存在し「取り急ぎ・必ずや」どちらの意図にも取れるもの。

  • 尚以、急度進退者被替候而、尤に存候ゝゝ
  • 遣内書間、急度加意見無事之段、可馳走事肝要候
  • 雖然大井徒就相揺者、定而急度可引退候哉、其上之行
  • 着到を付、急度可申越、於今度諸人不走廻而不叶候
  • 右、何茂委可注給候、得御意急度可申付候
  • 令遅ゝ候、此上ハ急度致出陣、葛西筋儀、涯分可走廻候
  • 註交名、急度可有註進之状、
  • 右之二ヶ条、急度可奉果行者也、
  • 各ゝ粉骨感入候、此趣氏康へも急度可申届候
  • 寄子貮拾騎預ヶ置候、急度可相尋候
  • 輝虎依存分、急度重而可被差下御使節事
  • 就有無沙汰者、急度可加異見者也
  • 及兎角条甚以曲事也、急度伝馬銭相調、台所野中源左衛門爾可相渡
  • 然上者、不令異見急度被出人質出仕候様
  • 弥以被廻計策、急度御落着簡要候
  • 被仰出候、急度以現夫可走廻者也
  • 以彼是一向不如意迷惑候、同者急度有出来御意見可為本望
  • 先当年貢急度可弁済物也
  • 去十九卯刻ニ端城押入乗取候、爰元急度落居候者、重而可申展候
  • 今度加藤与五右衛門曲事ニ付て、急度加相成敗候
  • 急度可有御入院候
  • 急度申付可令所務
  • 急度可被申越之事
  • 其上を以而急度可申付
  • 急度召連当地可来候

3 「必ずや」でなければ意図が通じないもの
若於違犯之輩搦捕、急度依注進可処厳過者也

 2が最も多くなったことから、文意から主用例を判断できないようだ。では、「急度」でしか見られない意味があるかというと、「急ぎ」という表現には「火急」「速」「急速」など、他の語も多く見られる。また、「必ずや」にも「必々」「必」という直接的な表現がある。こちらも判断材料にはならない。但し、「急度」が両方の意味を曖昧に持っていることから選ばれている可能性はある。
 同時代に近い辞書を引くと以下のような記述がある。「きと」は「きっと」の原型で、撥音で強い意味を持ったのが「きっと」となる。

■邦訳日葡辞書

Qitto キット(急度)[副詞]、速やかに

■時代別国語辞典

きっと[副詞] 1)時期を逸せず、的確に事がなされるさま 2)「きっとみる」などの言い方で、鋭い視線を対象に当てて、その本質を見抜こうとするさまを表わす 3)「きっと~して(した)」の形で、毅然としてあたりを払うばかりのきびしい姿勢、態度を持するさまを表わす 4)事態が、予測したり期待したりするとおりに確実に実現されるものと判断するさま

きと[副詞] 1)行動が核心に向けて、直接になされるさま 2)対象をあやまたずとらえるさま

 時代別国語辞典を勘案するならば、「毅然として」「必ずや」「速やかに」の3パターンとなる。ただ、日葡辞典には「速やかに」の意しかない点、文頭の決まり口上によく使われた点を考えて「取り急ぎ」という現代語を当てておきたいと思う。
 現代語「取り急ぎ」は「可及的速やかに」に近しく、予見された行為・もしくは現在行なわれている行為の実行を前提としている。これを「急度」解釈に援用する企図となる。
 「取り急ぎ確認いたします」という場合、話者は確認行為を必須前提としつつ、可能な限り急ぐことも意図に加えている。「急ぎ確認します」と「必ず確認します」を兼ねており、この両義性は「急度」に通ずるものがある。そして、メールの文頭で略儀の言い訳に使っている点でも両語は似ている。
 上記を受けて3を考え直してみると、

「若於違犯之輩搦捕、急度依注進可処厳過者也」

→必と解釈

「もし違反する輩がいれば逮捕し、必ずや、報告によって厳罰に処すだろう」

→速と解釈

「もし違反する輩がいれば逮捕し、速やかに、報告によって厳罰に処すだろう」

→必・速両義と解釈

「もし違反する輩がいれば逮捕し、取り急ぎ、報告により厳罰に処すだろう」

 となる。原文を重視して「急度」の語順は変えていないが、現代文であれば「報告によって」の後に移動するだろう。「必ずや」と「速やかに」のどちらでも意味は通ずるものの、意図は異なる。
 この両義を保持するならば「取り急ぎ」と記述することで文のニュアンスに合わせられるものと判断した。

然而

 「然」「而」は、それぞれ前の状態を継続する語義を持っている。ところが、『古文書古記録語辞典』で「然而」の項には不自然な解説が見受けられる。

然而 しかれども されど、しかしながら。

 ここに書かれた逆接の意味は、少なくとも私が掲出した文書内の「然而」では見られない。
A)今川氏真朱印状写
於牛窪抽奉公、殊城米令取替、并塩硝鉛百斤城下入置之由、朝比奈摂津守言上、神妙也、然而去年吉田雑説之時分、天慮方へ依令内通、彼城于今堅固之儀、是又忠節也、

今川氏真、岩瀬雅楽介の三河錯乱時の忠誠を褒める


B)北条氏政書状
越府へ憑入脚力度ゝ被差越由、祝着候、然而敵者、去年之陣庭喜瀬川ニ陣取、毎日向韮山・興国相動候、韮山者、于今外宿も堅固ニ相拘候

北条氏政、毛利丹後守に戦況を報告、上杉輝虎の出撃を要請する


C)伊勢宗瑞書状
次当国田原弾正為合力、氏親被罷立候、拙者罷立候、御近国事候間、違儀候ハゝ、可憑存候、然而今橋要害悉引破、本城至堀岸陣取候

伊勢宗瑞、小笠原定基に挨拶し今橋攻城を戦況を伝える


D)快元僧都記
十八日、例之建長・円覚之僧達、為今川殿不例之祈祷大般若被読、然而十七日ニ氏照死去注進之間、即夜中被退経席畢、今川氏親一男也、

今川氏輝・同彦五郎兄弟没する


 A/Cともに、「然而」を逆接にすると意図が判らなくなる。「そして」か「ということで」と解釈するのが自然である。B/Dは辛うじて逆接の意を差し挟む余地がある。但し、必ず逆接である必要はなく、順接でも充分文意は成立する。
 また、「然」につなげた「而」は、この時代だと「て」と読んで、直前の語を連用修飾語に変化させる役割を担う。サイト内で以下の例が見られる。

  • 謹而=つつしんで
  • 付而=つきて
  • 就而=ついて
  • 次而=ついで
  • ニ而=にて
  • 仁而=にて
  • 初而=はじめて
  • 重而=かさねて
  • 附而=つきて
  • 分而=わけて
  • 別而=べっして
  • 候而者=そうろうて
  • 随而=したがって
  • 抽而=ぬきんでて
  • 改而=あらためて
  • 頻而=しきって
  • 残而=のこって
  • 定而=さだめて
  • 追而=おって
  • 仍而=よって
  • 従而=したがって
  • 達而=たって
  • 遮而=さえぎって
  • 切而=きって
  • 惣而=そうじて
  • 不走廻而=はしりまわらずして
  • 軈而=やがて

 それぞれの用例で「而」が先行語を否定して逆説・否定となった例はない(否定時は「不」が存在する)。このことから、「而」自体に逆接機能はないといえる。
 では「然」はどうか。「然」を伴う逆接例としては「雖然」がある。こちらはサイト内に19例あるが、純粋に逆接に使われている。「然」以外の語と連なった場合「雖為」「雖出」「雖企」「雖有」なども全て逆接となっている。以上より「雖」に逆接機能があることと、「然」を逆説化した用法が存在することが判る。
 上記それぞれを勘案すると、「然而」は「しかして」「しかりて」と読む順接の連用修飾語であると判断できる。

 あくまで私見だが、現代で使われる逆接語「しかし」は「しかし・ながら」「しかし・といえど」の後半が略されて成立したものではないかと推測している。

 本来の「しかし」には逆接の意がない。これは、現代語で「しかしながら」と「しかし」がともに逆接であるという矛盾から判明する。「しかし」単体が逆接ならば「ながら」で逆説をかぶせるのは二重否定で順接となってしまうはずだ(これはほぼ同じ語源の「さりながら」を考えると判りやすいかも知れない)。口語「だがしかし」が成り立つのも奇妙な現象である。また、かろうじて文語として生き延びた「しかして」が順接であることも、現代語「しかし」の逆転された扱いを指摘している。

 また、「しかし」と読むことで然と同様に逆接と受け取られる「併」についても、古文書内では「そして」「ついで」「あわせて」と読まねば文意が通らない用例が多く、逆接として考えには無理がある。

 中世末期~近世初頭までは単純に順接として扱われた「しかし」が近世以降のどこかのタイミングで機能逆転し、派生語全般に混乱を来たした。それが「然」「併」の解釈に影響を与えていた、ということになる。

 『雑説(ぞうせつ)』は、「取り留めのない噂」というのが本来の意味。ただし、世情を反映して戦国期の例だと「不穏な噂・騒動」という扱いが多い。
 『錯乱』は雑説が更に進展して、誰の目にも騒ぎになっている状態を指すことが多い。また、多くは戦闘の発生を伴うことが多い。本来は自陣営だった地域が、敵とも味方ともつかぬ混乱に陥った場合にも用いる。
 『逆心』になると明確で、裏切り行為がはっきりすると使われる。自陣営から敵対陣営に身を投じる場合が多い。『返忠』は、逆心の反対となり、敵対陣営から自陣営に属すことを指す。

 極端に異なる意味を持つ、扱いが難しい言葉。「紛争する」と「仲介する」という両方の意味が、ここにアップした文書内で出てくる。「紛争する」という場合は「取り合う」、「仲介する」という場合は「執り成す」として現代語につながるものと思われる。
 「取相」は「相」を「あい」と読み、「取合」と同じ言葉の別表記となる。

 一番微妙な例を挙げてみた。岡崎城の松平広忠が尾張と同盟したために無沙汰となったのか、尾張と岡崎が紛争となったために無沙汰となったのかは、この文書だけでは決めがたいものがある。何れにせよ、松平氏が織田氏と何らかの状態(同盟か交戦)に陥ったために今川方への納税が滞り、その知行地を差し押さえたのが長田喜八郎だった。それを義元が賞したというストーリーが描ける。

 中世の文書によく出てくるのが、「役」(やく)と「職」(しき)だ。この二つは現代語でもよく使われるが、意味が異なるので注意が必要となる。ここでは戦国時代を中心にこの二つの使われ方を紹介する。

 領主から賦課される、税金の一種。すべてを貨幣で支払わせる現代の税金と違って、実働を建前とした。武士が負う役としては、軍事出動を意味する「軍役」と、拠点の守備任務を意味する「番役」、土木工事任務の「普請役」がある。一般民衆である百姓には、夫役(労働)・陣夫役(戦時労働)・伝馬役(通信運輸)として課された。職人や寺社にも特殊な役が賦課されることがあった。百姓・寺社では実働を嫌って金銭による費用負担を希望するケースが多かった。

 元々は荘園のシステム内にあった職務。後に職権に伴う収益権益も指すようになり、職の体系という独自の仕組みを持つ。武士階級によって荘園解体が進むと、守護職や地頭職・名主職が出てくる。一方で商工業者の職も現われて後の「職人」につながる。職は一代限りのものから始まり、世襲が行なわれた後、売買の対象物となった。

 よく言われるのが「歴史上の人名は似たり寄ったりで覚えられない」。確かに、似ている名前が多い。上で挙げたように、父子で同じパーツを代々受け継ぐパターンもあるから。
 このほか、名前を似たものにする要素として、偏諱(へんき)という仕組がある。

名乗り【なのり】

(1)貴族や武士の男子が元服の際に,幼名や通称のほかに新たにつける名前(実名)。先祖代々使われる自分の家系を示す字(通字,系字)や,主人から一字(偏諱)を拝領したり,縁起の良い好ましい字が選ばれ,組合されたりした。

(2)自己の姓名・地位・身分などを口頭で述べること。内裏で宿直の殿上人らが名乗るのを名対面という。また武士は合戦に先立って先祖の勲功や自己の出身などを述べた。

→岩波歴史辞典

 武士の偏諱を説明しているのは、(1)の後半部分。
 主人というのは上司のこと。たとえば後北条氏の場合、氏綱の家臣には『綱~』という名前が多く、氏康の家臣には『康~』というのが多い。偏諱を受けるというのは、ある種親密な上下関係を持っている場合に多いようだ。
 このほか、元服の際に登場する烏帽子親という擬似的な保護者から、字を貰うことがある。
 少し複雑な例が甲斐武田氏の晴信。甲斐武田氏は実名の先頭に『信』をつけるパターンが伝統的に存在する。これを通字と呼び、代々本家が名乗るのが一般的。『信』の通字は信縄-信虎とつながってきたが、信虎の代になって将軍家とつながりができたようで、彼の嫡男は室町将軍足利義晴から『晴』を貰い受けることとなったようだ。上位者より貰った『晴』は名前の先頭に持ってくる必要があるので、『晴』+『信』となる。この晴信の嫡男が『義信』で、今度は室町将軍家の通字である『義』を貰えている。そこで『義』+『信』という組み合わせをとった。

 武士の名前は結構複雑だ。今川氏親を例にとって見ていこう。
 まず、彼が6歳で父親を失った際に登場する名前は童名。

童名 → 龍王丸

 『丸』は童名でよく使われるが、これは省略されることもある。
 そして元服という成人式を経て、実名が与えられる。この名前をくれる人が烏帽子親(氏親の烏帽子親は不明)。後述する【偏諱】という通例によって、実名は烏帽子親から一字を貰う場合がある。氏親が偏諱を受けるとすれば、古河公方である足利成氏ぐらいしか思い浮かばないが、そうなると古河公方の対抗勢力である堀越公方との関係性は微妙である。

苗字 → 今川

実名 → 氏親

 これが基本パーツ。
 実名と同時にもらえるのが仮名(けみょう)。氏親は『彦五郎』だった。今川家の当主は『五郎』が多い。
 手紙などでは、今川五郎といったり氏親といったりする。手紙だと、省略した名前を自分にも他人にも使ったりする。織田氏の例だが、木下藤吉郎(秀吉)を『木藤』、明智十兵衛(光秀)を『明十』といったりする。
 そして、これに官途名(かんとめい)という役職名が加わる。氏親は、治部大輔・修理大夫・上総介の役職名を持っている。この官途名は勝手に名乗る人が多い。氏親は一応正式に認可されているはず(未確認ではあるが、今川氏という家格の高さから、勝手に名乗る可能性は低い)。
 また、修理大夫という名前を中国風に読んで『匠作』と呼ばれたりする。
 そして、出家した際に名乗る名前がある。氏親は、紹僖と名乗っていた。そして死んだ後の戒名が喬山。喬山公と言われたり、菩提寺の名前をとって『増善寺殿』と呼ばれたりしていた。つまり、今川氏親という人物は以下の名前を持っていることになる。

氏:源

姓:朝臣

苗字:今川

童名:辰王丸・竜王丸

仮名:彦五郎

実名/諱:氏親

官途名:治部大輔・修理大夫・上総介

唐名:匠作(修理大夫)

出家名:紹僖

戒名:喬山紹僖大禅定門

菩提寺名:増善寺殿