高村

山県昌景、伊藤忠右衛門に、長篠籠城と井伊谷での活躍を武田勝頼に伝えたと知らせる

定 今度長篠籠城之砌、励無類之戦功、頸一被討捕条、神妙被思食候、殊去月於井伊谷、別而忠信之由御悦喜候、然而三州御本意之上、於西三河之内、必須相当之地一所可被宛行之趣、被仰出者也、仍如件、 元亀四[発酉] 十一月廿三日   山県昌景、伊藤忠右衛門に、長篠籠城と井伊谷での活躍を武田勝頼に伝えたと知らせる

武田勝頼、奥平定勝・定能に、長篠後詰の状況を知らせる

以幸便染一筆候、仍敵于今長篠在陣之由候条、自去廿三日至今日、打続人数立遣候、小笠原掃部大夫并自当府、先日今福・城・横田等差立候キ、又今日も武藤喜兵衛尉・山県善右衛門尉出陣候間、万端有談合堅固之儀肝要候、勝頼も上信之人衆引 武田勝頼、奥平定勝・定能に、長篠後詰の状況を知らせる

武田勝頼、後閑・伴野・小幡・依田・竹重氏に、内通の噂を確認し油断しないよう伝える

急度染■■■[一筆候]、■■[仍而]敵地内通之族如申越者、於其■■■■[地謀叛之]輩就有之、其地へ成揺之由候、城内之用心不可有由断候、自然三十六人衆之内、謀叛之輩可有之歟、不審ニ候、高野被相談、用心等可被入于念候、為其越 武田勝頼、後閑・伴野・小幡・依田・竹重氏に、内通の噂を確認し油断しないよう伝える

武田勝頼、山県昌景に、徳川家康を長篠攻撃に注力させるよう依頼する

其已後之行如何、聞届度候、仍敵于今長篠在陣之由候条、其許之動有工夫、如何様ニも家康其表へ分人数、長篠後詰ニ成候之様、穴左・消遙軒・朝駿・岡丹・岡次等有談合、調略尤ニ候、畢竟二俣へ付飛脚、家康引間迄退散之有無被聞届、可被入 武田勝頼、山県昌景に、徳川家康を長篠攻撃に注力させるよう依頼する

徳川家康、服部中保次に、遠江国刑部村の内等を安堵する

服部中宛行本知行分之事  合百弐拾貫文  此内 百貫文者遠州刑部村 弐拾貫文者参州岡村 右、年来戦忠明鏡之上、今度境目就調略、若於討死者、宛行知行分、息子つう丸ニ可申付、彼者幼少之間者、安孫刑部右衛門以異見、知行分所務も 徳川家康、服部中保次に、遠江国刑部村の内等を安堵する

徳川家康、匂坂勝重に、遠江国白須賀郷の内等を与える

宛行知行之事 右、白須賀郷并長屋郷田畠・野山・船綱等、不准自余相除之、彼郷中見出聞出之田地等、一円勝重可為計、然者去ル戌年高天神籠城之時節、凌敵地及数ヶ度令通用、不顧身命忠節、為其賞彼知行出置候、永不可有相違、守此旨弥可 徳川家康、匂坂勝重に、遠江国白須賀郷の内等を与える