高村

今川氏真、武田晴信に、三河出撃への協力を依頼する

御帰陣之上早々可申之処、少取乱候而、遅々意外之至候、仍去年以随波斎申候之処、以一書承之候、得其意■■可申候、就御在陣■引非疎意候、只今存分以定林院■申候、於氏真聊無別儀候、将亦初秋至三州可出馬候、如兼約御合力候者、可為祝 今川氏真、武田晴信に、三河出撃への協力を依頼する

補1:松田家の人々

前の記事では松田調儀の実態について俯瞰したが、各人物の年齢に関しては深く説明できなかった。このため、項を改めて考証してみたい。 新六郎政晴が憲秀の次男であることは勝頼の複数の文書によって明らかだ。 武田勝頼書状 武田勝頼 補1:松田家の人々

松田直秀、高野山高室院に、北条氏直からの指示がないことを伝える

猶以、是迄御尋、過当之至、難申上候、其以来者、無音信、背本意奉存候、何様自是可得尊意候、かしく、 被入御念、是迄預御使僧候、誠以忝奉存候、如尊意、此度不慮成儀共、更可申達様も無御座候、我等躰迄めいわく仕候、乍去、拙者なと 松田直秀、高野山高室院に、北条氏直からの指示がないことを伝える

松田直秀、高野山高室院に、北条氏直の大阪転居を知らせる

尊札快然ニ奉存候、仍自京都■御使節富左被参、氏直大阪へ可罷移之由、御意之段被申、自境道同道、内府屋形へ移被申候、外聞実■、於我等式も、大慶此事ニ候、聞召不絶氏直所ヘ被仰届候、忝之由被申事ニ候、何様自是■■■者可申上候、此 松田直秀、高野山高室院に、北条氏直の大阪転居を知らせる