今川義元、紀伊国熊野新宮に分国中の門別勧進を認める
(今川義元花押) 分国中門別勧進之事 右、只今之事者、参州出軍之条、於静謐之上、発起次第可被勧之旨領掌了、仍如件、 弘治二年 二月廿九日 熊野新宮庵主 →静岡県史資料編7 「今川義元判物」(梅本文書) 分国中で門別での …
(今川義元花押) 分国中門別勧進之事 右、只今之事者、参州出軍之条、於静謐之上、発起次第可被勧之旨領掌了、仍如件、 弘治二年 二月廿九日 熊野新宮庵主 →静岡県史資料編7 「今川義元判物」(梅本文書) 分国中で門別での …
野間大御堂寺従前代雖為守護不入、猶以御理之儀候条、一円令免許上者、諸役等寺中之竹木夫以下此外於向後も申事有間敷者也仍状如件 元亀三年 壬申 十月十八日 水野十郎左衛門尉 柿並 寺中参 是後ノ十郎左衛門也 元藤四郎元茂ト云 …
就今度飯尾豊前守赦免、頭陀寺城破却故、先至他之地可有居住之旨、任日瑜存分領掌了、然者寺屋敷被見立、重而可有言上、頭陀寺之儀者、云今度悉焼失、日瑜云居住于他所、以連々堂社寺家可有再興、次先院主并衆僧中、以如何様忠節、令失念 …
松平竹千代知行大浜上宮神田事 右、先年尾州岡崎取合之刻、対広忠令無沙汰之条、彼神田召放、依為忠節、自去年出置之云々、然者勤相当之神役、可支配之、若先禰宜雖企訴訟、一切不可許容之者也、仍如件、 天文十九 十一月十九日 治部 …
去己酉年山口内蔵令同意、依可抽忠節造意現形、於尾州数ヶ所知行捨置馳来、其以来無足奉公、甚以忠節之至也、既安城陣之刻、以阿部大蔵、兄三左衛門尉跡職之内百貫文地、雖可出置之由申、一円彼跡職之知行可請取之由令遅延云云、然者、任 …
和泉殿不慮之 仕合ニ而被相果 不及是非候然者 六左衛門指越候 和泉殿ニ不相替 馳走肝要候謹言 七月廿五日 家康(花押) 上田清兵衛とのへ 鈴木次兵衛とのへ 同久兵衛とのへ →新編東浦町誌「徳川家康判物」 和泉守殿が思い …
沓掛・高大根・部田村之事 右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之 …
参州細谷代官并給分五拾貫文之事 右、先年依吉田令内通忠節被出置、任先判形両通之旨領掌了、次代官徳分代方六貫八百文・米方四斗、同陣夫壱人之事、是又如年来可令所務候、縦彼地為知行自余江雖出置之、右之給恩五拾貫文并代官徳分米銭 …
善導寺へ清水左京亮きしん下地之事 合八百五十文め 坪石とう三百文め 同三ツ池五百五十文め 代末本そんへきしんいたし候、然者無ゑん所之儀之事候間、落居申事候ハゝ可如何有候と子細被申候、若何時清水左京亮前相違之儀候ハゝ従此方 …
犬居三ヶ村定置法度之事 一、山中被官・百姓等、対景泰企非議之訴訟、属他之手、剰直ニ可令奉公之由雖申上、不可許容事、 一、百姓等年貢引負、或隣郷山林不入之地就令徘徊、相届任法度可加成敗、并山中寺庵等小寺領・屋敷以下無相違処 …