朱印状写

今川家、岩瀬雅楽介に、牛久保城米の立替返済を指示する

於牛久保今度令取替来五百俵被返弁之儀、以来穀雖可申付、為遠路之条、代物爾相定、去四月之売買計、別積百五拾貫文可弁債、遠州吉美以年員銭所申付也、若代物就不足者、以同郷之米時之売買積百五十貫文之首尾可相渡之、殊利足之儀者、一 今川家、岩瀬雅楽介に、牛久保城米の立替返済を指示する

松田憲秀、山口郷左衛門に、前橋合戦の戦功を賞し所領を宛て行なう

定 一、此度滝川左近将監与於上州前橋合戦之刻、父子前登進敵ト戦大勢ヲ追崩、殊ニ首取候事、又無比類働一人当千也、此度勧賞、相州愛甲郡於奈良沢郷弐百貫文之所宛行者也、仍如件、 天正十年[壬午]  発仙 奉之 七月廿三日 山口 松田憲秀、山口郷左衛門に、前橋合戦の戦功を賞し所領を宛て行なう

北条氏、長尾左衛門尉・同孫七郎に、羽柴氏来攻の対処を指示

如顕先書、京勢催行由、注進連続之間、先軍勢を集候、其表之義任置候条、善悪共安房守被相談、無二可被及防戦候、 一、郷村之兵粮、正月晦日迄限而、悉く要害へ被入置事、惣並候、厳可有下知候、少之切所をかたとり、城中へ兵粮被入義、 北条氏、長尾左衛門尉・同孫七郎に、羽柴氏来攻の対処を指示

後北条氏、関・網代・台宿の町人に、船橋三王山南の堀掘削を命じる

舟橋三王山南之構之小ほり半分ツゝ、両宿より可致之候、模様者、近藤治部左衛門・太田美作守如作意可致之者也、仍如件、 天正五[丁丑]年 [朱印]壬七月朔日 関宿 綱代宿・臺宿町人衆中 →戦国遺文 後北条氏編 1925「北条家 後北条氏、関・網代・台宿の町人に、船橋三王山南の堀掘削を命じる

後北条氏、北条氏繁に、上総一宮への救援物資搬入を指示する

一宮正木藤太郎逼迫候間、合力候、今廿三日より四・五・六、四日之間ニ、兵粮支度出来次第、百四十俵一宮へ遣、正木代自旗本之検使両人之請取状を、可被取候、仍如件、 追而彼兵粮、用ニ立様ニ可被申付候、 八月廿三日[虎印] 左衛門 後北条氏、北条氏繁に、上総一宮への救援物資搬入を指示する