山田のをのゝゝ馳走、めをおどろかしつ。宗碩は此ついで尾張へこえ、長阿は北地の旅行やうゝゝ雪になるべくおどろかれて、此十六日におもひたちぬ。雲津川、阿野の津のあなた、当国牟楯のさかひにて、里のかよひもたえたるやうなり。あなたは関民部大輔、今は隠遁何似斎、こなたはたけより宮原七郎兵衛尉盛孝、阿野の津の八幡までいひあわせ、自身平尾の一宿まで山田をたち、平尾の一宿のあした夜をこめて出。たつの刻より雨しきりにふりて、みわたりのふなわたり塩たかくみち、風にあひて雲津川又洪水。乗物・人おほくそへられ送りとどけらる。此津、十余年以来荒野となりて、四・五千間の家、堂塔あとのみ。浅茅・よもぎが杣、まことに鶏犬はみえず、鳴鴉だに稀なり。折節雨風だにおそろし。送りの人は皆かへり、むかへの人はきたりあはずして、途をうしなひ、方をたがへたゝずみ侍る程に、ある知人きゝつけて、此あたりのあしがるをたのみ、窪田といふところ、二里送りとゝ゛けつ。其夜中に、関よりむかへ、乗物以下具して尋ねきたりぬ。今日の無為こそ不思議におぼえ侍れ。此所の一宿、おり湯などして、その夜のね覚に

 おもひたつ老こそうらみすゝ゛か山ゆくすゑいかにならんとすらん

→宗長日記 「1522(大永2)年・山田より亀山へ」

 山田の各々がもてなして、目を驚かせた。宗碩はこの後に尾張へ行き、私は、北陸への旅が雪になると驚いて、この16日に思い立った。雲津川と安濃津のあちら、この国と紛争の境界になって、民間人の通行も絶えているようだった。あちらは関民部大輔で、今は隠遁して何似斎。こちらは多気から宮原七郎兵衛尉盛孝が安濃津の八幡まで申し合わせて、平尾の宿までと山田を発って、一泊したのち夜明け前に出立。辰刻(午前8時頃)から雨がしきりに降って、舟の渡し場に潮が高く満ち、強風で雲津川もまた洪水。乗物と人を多く添えられて送り届けられた。この津は、十余年来荒野になって、4~5,000軒の家、堂や塔の跡のみ。寂しい荒地で、鶏や犬も見えず、カラスの鳴き声も稀であった。折りしも風雨が凄まじかった。送ってくれた人は皆帰ったのに迎えの人に巡り会えずに道を見失い。方角を間違えて立ち尽くしていたところ、ある知人が聞きつけて近辺の足軽に頼んで窪田というところまで2里送り届けてくれた。その夜半に、関からの迎えが乗物なども伴って尋ねてきた。今日無事だったことを不思議に思う。この宿で居り湯などを使ってその夜の寝覚めに(和歌略)

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