御館の乱を扱った書籍の刊行が相次いだのと、今川義元最期の次に1561(永禄4)年の憲政南進を扱おうと考えているため、上杉輝虎の関東管領継承を調べている。そこでよく目にするのが「上杉謙信(輝虎)は京公方、関東公方を敬っていた」という記述である。しかしそれは真実の姿だろうか。この前提によって、輝虎に逆らう勢力は「旧秩序を敬わない」と推論されている点が気になっていた。

史料に即して細かい検証を行なうのはこれから行なうとして、一般に知られている事績とその裏事情を列挙してみよう。

  1. 2度も上洛して足利義輝に奉仕した。
  2. 関東管領に就き復古体制を敷こうとした。
  3. 村上氏など信濃から亡命した反武田勢力を保護した。

1については、守護代の家格しか持たない輝虎が、守護権力を進展させた武田氏に対抗するための措置である。義輝は三好氏と対決してくれることを期待して便宜を図ったが、実際の貢献は行なっていない。むしろ、輝虎に過度な期待を寄せた義輝は三好氏を刺激した挙句殺されてしまう。輝虎は旧来の権力を上手に使って自己の権力強化を成したに過ぎない。

2も同様である。藤木久志氏著作で知られることとなったが、越後から関東への出兵は口減らしと略奪が主目的だった。略奪の中でも人身収奪の苛烈さは他氏を抜いている。また、義輝から得た権限は当初「関東管領憲政を補佐する」というものだったが、いつの間にか「輝虎が憲政の養子となって関東管領を継ぐ」という奇抜なものに変わっていた。越後上杉氏ならともかく、その配下の守護代、しかも、越後上杉房能、関東管領上杉顕定の2人を殺した長尾為景の次男が継ぐのは驚愕の目で見られただろう。憲政は37歳で輝虎は30歳、年齢差はさほどないし、憲政には子があった一方で輝虎は妻帯すらしていない。よしんば憲政が関東管領から引退したがったとしても、為景が擁立した越後守護上杉定実が健在である。この不自然な継承が成田氏・大石氏・藤田氏らの離脱を招いたように思う。

3については、確かに村上義清を保護している。しかしそれは他氏でも行なわれていた戦略で、追放された旧主を保護して橋頭堡とする例は多い。また、村上義清自体はほぼ一代で成り上がった下克上の人物であり、守護代ですらないのに北信濃を席巻している。普通に考えれば、彼に政治的利用価値があったから引き取ったのだろう。

伝統に殉じようとしたとか、義の武将とか、そのような思い入れは輝虎の実像から遠ざかるばかりではないか。一国守護だった今川・武田、外来者として未知のシステムを持ち込んだ後北条・里見と比べると、輝虎は斎藤利政・三好長慶・陶晴賢・織田信長に近い。いわゆる、守護代を踏み台にした急速なステップアップ組だ。彼らは時代を先取りした革命・破壊・急進をもって語られることが多い(個人的には、守護よりは革新、外来者よりは保守と見ている)。府中長尾氏は守護代ということもあるし、輝虎を彼らのグループとして考えみてもいいのではないかと思う。史料が揃ってきたこともあり、そろそろいいタイミングかと。

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