1991年に刊行された、中公新書・高橋崇著の1冊である。今でこそ厳密な史料第一主義の新書も増えてきたが、当時としては異色なほど史料にこだわっていた。安倍氏と清原氏という東北在地勢力と、関東・東海の武士団を率いた源頼義・義家父子の関わりを詳細に叙述している本格派だ。
一般には、前九年と後三年は源氏が関東に基盤を作る画期だと見られている。2度の戦闘で活躍した源氏がその後の飛躍の準備をしたという。ところが、源頼義と義家は、朝廷の職権を巧みに用いて安倍・清原氏の内紛に付け込んだという可能性が高いとする。史料を読み込むと、合戦の主体ですらなく、単にセールストークで利権を確保しようとした事実が浮かび上がってくる。
本書から話は飛躍するが、蝦夷征伐の過程で朝廷は東北地方から多数の捕虜を収奪し、貢納物の徴発期間として城・柵を多数設置している。そして、その尖兵として関東武士が着目され、利用されてきた。だがその関東武士が精強だったかというと、疑問符がつく。奈良時代の関東は未開の地であり、百済からの亡命者と流刑者、没落貴族が、東北の捕虜を使役したというのが実態に近いだろう。平将門・藤原秀郷らについても、個人的な武勇譚でしか語られていない。そこに軍事的な強みは見られない。その関東武士を初めて組織化したのが源頼朝である。ここでバイアスがかかり、関東武士はその祖である頼義・義家との関係を強調し、前九年・後三年での奉公を広めたのだと思う。
関西・関東という国内2大地域が歴史の主観となることが殆どだが、それを敢えて外し、当事者である東北からの史観を入れた意味で本書は貴重である。歴史は、京・鎌倉・江戸からだけ語られるものではない。
後三年の役が結局朝廷に認められず、利権につながらないことが判ると、義家は清原武衡・家衡の首級を路傍に打ち捨てて京に帰る。葬ることもないその姿に、武家源氏の裏の顔が仄見える。