『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大転回』(杉山正明著・講談社学芸文庫)を読んで、考え込んでしまった。

この本は丁寧な解説でモンゴル帝国の成り立ちと限界点が紹介されている良著で、世界史の授業でよく言われる「モンゴルの破壊」についてもそれがイデオロギーによる虚説であると証明している。南宋、アラブ諸国、中央アジア諸国いずれもが、モンゴルの介入によって文化・文明が破壊された事実はなく、むしろ都市は発展すらしているという。史料や統計で明らかになっているそうだ。

では何故通説はなくならないのか。モンゴルはヨーロッパ・アラブ・アジアをまたいだ大帝国のため、様々な国で少しずつ研究は進んでいるものの、統合された史論にはなっていない。このことが原因で、国ごとのローカルな通説を修正できていないようだ。詳細は本書を見てもらえれば納得できるが、ロシア・中国・ペルシャの通説固執例を詳しく出している。

もう1点気になる指摘があった。初版(1995年)当時隆盛していたウォーラステイン氏による「世界システム論」を軸にした、現在の社会システムを遡って主な歴史を決めていく欧米流の『グローバルな歴史』が築かれつつあるという。たしかに、大航海時代以降、西欧を根拠地とする文明は世界を席巻した。それは現代も継続している。この欧米が自らの覇権を振り返ったのが『グローバルな歴史』である。そのような史観自体は否定していないが、杉山氏が問題としているのは、世界システム論でアジア・アフリカも含んだ全ての歴史を語れると信じ込んでいる点。そしてその史論を欧米の知識層が多数支持している点なのだ。

西欧が火器によってアジア・アフリカに侵攻するのは19世紀以降であり、たかだか200年の歴史でしかない。それ以前の世界史も存在するということを、欧米以外の各国史家が発言していかなければならないだろう。その意味では、西洋植民地時代に先駆けて独自の世界帝国を形成したモンゴルは、現代の欧米覇権主義に対抗し得る歴史的題材である、と語られている。

このくだりを読むと、「別の目的を持つ歴史論」の危険性に改めて気づく。歴史は国内統治や外交、詐欺に巻き込まれやすい。たとえば日本の戦国代であれば、江戸初期に書かれた軍記の多くは、作者の宣伝に使われたり、遺族からの要望でいもしない人物が加筆されたりしていた。現代から見るとどうでもいいような理由で歴史が変えられていったし、それは現代でも続いている。

別目的や主観を排除するには、史料だけを見つめて、推論の上に推論を重ねない注意を払って仮説を組み立てていくしかない。しかし、史料は事実を語ってくれるのだろうか……。最近疑問に思っている。歴史学は再現性を全く担保できない。史料第一主義の立場からすると、これは絶望的な欠陥だといえる。

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