山鳥・蝋燭到来候、仍干海鼠・海鼠腸遣候、然而諸軍勢悉打着候、諸山手ニ為陣取候、眼前之事、善悪ニ付而可心安候、如顕先書、上州之儀者、沼田一城ニ極候、心ミしかく擬候而者、一向可為無届候、其塩味専一候、普請与くらい物者、此両様ニ極候、普請者、猪俣自身鍬を取者、其地ニ普請せぬ者ハ有間敷候、豆州之城ゝ、美濃守を始、自身夜昼之無着別成之由云候、謹言、

正月十六日

猪俣能登守殿

→小田原市史 資料編「北条氏政書状」(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)

1590(天正18)年に比定。

山鳥・蝋燭が到来しました。『干しナマコ』と『このわた(ナマコ腸の塩辛)』をお送りします。さて、諸軍勢は全て到着し、それぞれ山手に陣取っています。眼前のこと、善悪についてはご安心下さい。先の書状のように、上野国のことは沼田城の存在に極まっています。短気な考えでは一向に行き届かないことでしょう。熟慮が大切です。普請と食料、この2つのあり方に極まります。普請については猪俣自身が鍬を取れば、その地で普請しない者はいなくなるでしょう。伊豆国の城々は美濃守が率先して自ら昼夜の区別なく行なっているそうです。

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2 comments untill now

  1. マリコ・ポーロ @ 2011-10-29 10:52

    今頃拝見しました。
    この書状、面白いです。猪俣や氏規の性格ややり方が、分かるような気がします。
    干し海鼠とコノワタ、いいですね。あと、江川酒があれば‥‥。

  2. コメントありがとうございます。「美濃守は率先して普請している」って、かなり嘘なんですよね。まあ現代のビジネスシーンでもよくある話ですけど。猪俣邦憲は前の名前である富永助盛に戻って、弟の勘解由左衛門と一緒に前田家に仕えたようです。金沢の希翁院が菩提寺だとか……。