究極の難文書 問題編
このサイトでも度々紹介した鴨川氏の『武田信玄と勝頼』では、1通の複雑な書状を巡る謎を追う中で、古文書の基本的な機能を語る手法を使っている。それにあやかる訳ではないが、先日後北条氏での究極の難文書と思えるものに出会った。そ …
このサイトでも度々紹介した鴨川氏の『武田信玄と勝頼』では、1通の複雑な書状を巡る謎を追う中で、古文書の基本的な機能を語る手法を使っている。それにあやかる訳ではないが、先日後北条氏での究極の難文書と思えるものに出会った。そ …
古文書を読み出してからやたらとアップしている。何だかサイトがとっつきにくくなるし、衒学的な雰囲気で余り好ましくないと時折思う。ではあるのだが、古人の書状がまた無類に面白い。こればっかりは止められそうにない。 まず、戦国時 …
戦国時代全般でよく言われる「飢饉の時代」について、最近少し疑問に思っている。 食糧難ということは、人口に比べて食料生産が少ないということだ。しかし、史料を見ると実態は間逆の方向を指しているように見える。 この時代、 …
後北条氏がその最末期に分国総動員をかけた印判状は有名で「ひらひら武者めくように」という一節はよく引用される。では何故武者めかなければならないのだろうか。 同じく同氏の軍役規定では、宛所の給人が「馬上」であるように指示した …
先日、早雲寺住持の明叟宗普を調べた折り、彼が氏康と同年齢だと知った。北条綱成も同い年となる。また、今川氏輝も同年なので、氏康室の瑞渓院殿も年齢は近い(氏輝と同母。姉か妹かは不詳)。幻庵の名で知られる北条宗哲は彼らの20~ …
松山城主の上田長則が、元服したてと思われる木呂子新左衛門に宛てた文書を紹介した。「親の苦労(後見?)で最初は奉行するものだが、木呂子家は代々の近臣だから特別に扱う」と書いているので、新左衛門は父を失って幼くして元服、相続 …
瑞渓院殿の危篤と氏政の出馬延期の相関性を考えているが、天正10年の甲信侵攻作戦での氏政不出馬のケースともつながるように思えて興味深い。この時の氏政は天正3年の榎本攻略時より追い詰められていた。 氏直を主将とする「大手」は …
覚書:北条氏政、清水上野入道に、大方の病状を伝えるで謎として、氏政と清水上野入道の位置関係が不明であることを挙げた。 その後、上田案独斎・毛呂土佐守への氏政書状を見た。どちらも「太方」の病状について触れている。『後北条氏 …
以前石垣山城の位置について考察した際に、山王川を挟んで小田原城総構えの外側に存在する篠曲輪が隠し港ではないかと推測したことがある(遠過ぎる石垣山 その4)。その後アップした史料を調べていて、氏政が氏規に水軍の配置を指示 …
またAndroidの話だが、『和時計』というアプリが面白い。GPSで割り出した緯度・経度から日出と日没の時刻を設定。それを不定時法に割り当てて「明け六つ」「お八つ」を体感できる。12支を2時間ごとに振ったものも併記されて …