『戦国遺文 今川氏編』の完結で、鳴海原合戦関係の史料は網羅できたと考えていたのだが……そういう矢先に新展開があった。

コメント欄にお邪魔したことのあるブログ『国家鮟鱇』さんでYOMIURI ONLINEの記事「信長の父「三河を支配」…中京大教授が新説」を知った。

『愛知県史 資料編14』所収の「菩提心院日覚書状」が論拠だという。そういえば年明けに刊行案内が来ていた。その際は「補遺だったら何れ図書館で見て押さえればいい」と甘く見ていた。

資料編14の発売は4月だったので、国会図書館・都立中央図書館で蔵書検索をかけたものの……ない。先日も弘中隆包の「遺言めいた書状」を探しに国会図書館に行ったものの、『大日本古文書 家わけ第二十二 益田家文書之三』がなかった。都立中央にはあるけれど、そこまで足を伸ばす余裕が今はない。

現在版元の愛知県県史編纂室へ購入申し込み中。中世補遺が230点、織豊補遺が330点あるそうなので、改めて精査したい。果たしてどんな文書と出会えるだろうか。

こういうことがあるから、史料道楽はやめられない。

武家と商家の関連について、手が空く限り調べてみたのだが、そのテーマでの一般書は見当たらなかった。『日本商人の源流』という古い書籍では、中世の大規模なキャラバンには多数の護衛が従属していたと紹介している。この辺りから、武家はむしろ伝馬・問屋に近しい位置なのかと方向修正を試みていたりする。森林資源の切り出しや流通路の整備についての武家文書はかなり多いように見えるので、ここを切り口に、気長に今後も考えていこうと思う。

などと言いつつ、近頃は『杉山城問題』と呼ばれる論叢に興味を惹かれてもいた。こちらは拙いながら少し見解をまとめることに成功したので、史料を提示してから検討してみようと思う。とはいえ、縄張り論やフィールドワークなどは無理だし、遺物の年代測定についても詳しくないので、あくまで今回引用された「椙山之陣」について掘り下げていく内容になると思われる。

不図思いついたことがあり、大変興味を持って頭の中で思考を進めていったのだが、これが予想外に惚れ惚れとする美しい仮説に育っていった。何れは1次史料と引き合わせて検証する必要があるだろうが、従来の私の史観を大きく変更する内容だけに既存の思考方向を改める必要がある。

ひとまずこの状況を整理し、自分の中で決着をつけるためにサイトの更新を一時的に休止する。秋には再開できるのではないかと考えているが、こればかりは判らない。

どのような仮説かというと、「武士は武装商人だった」のではないかというものだ。過去の学校教育の成果では、武士は農民が武装したものという理解が主題だったと記憶している。私はここから発展させて、大規模な土木工事・建築を行なえる農民が武装化して武士になり、中央から来た受領貴族と融合したと基本的に理解していた。しかし、「武将」ではなく「武商」だったと仮定することで多くの根本的な疑問が解けることに衝撃を覚えている。

  1. 戦国大名・国衆は、なぜ寄進を繰り返し行なうのか?
  2. 大名は町場(商工)に関わる課税がゆるいのはなぜか?
  3. 河川と街道の確保に執念を持つのはなぜ?
  4. 武器は自分たちで作っていたのか?
  5. 意外に破産者の多い被官の存在は何を示すのか?

これまでいくつか私が行なってきた史料解釈についても影響があると思われ、論旨を切り替えるためには色々と思考実験と演繹の再構築が欠かせないだろう。

サイト自体を止める訳ではないので、既存記事などでご意見がある場合はお気軽にコメントを。また、Contactリンクから直接メッセージを送れるので、細かいご連絡はそちらで。

 アップする史料を来週から『戦国遺文 今川氏編』第3巻からのものに切り替える。

 このところ生業が多忙を極めて史料解釈や記事が全く上げられない。図書館にも行けない状況で、手持ちの史料集だけで手一杯という体たらくだ。その一方で、生きた解釈につなげられそうな面白い経験もしている。

 私が所属する出版業界は、現在猛烈な縮小市場にある。既存の紙媒体がWebやソーシャルアプリ、タブレット・スマートフォンに駆逐されている。電子出版も話題性はあるものの、利益率は意外にも低く、余り頼りにならない。先行して崩れていったCD業界、新聞業界の惨状を見て同じ轍は踏むまいと苦慮するものの、大量販売の主力だった雑誌を失いつつある中で軌道修正する体力すら怪しいものがある。戦国時代でたとえると、1561(永禄4)年以降の今川家であるとか、1570(元亀元)年以降の大友家、1575(天正3)年以降の甲斐武田家に近い。後世の史家は氏真の施政や義鎮の迷走、勝頼の統制不足を論うが、一旦縮小方向に切り替わった組織・業態を切り替えて再び拡大するのは本当に難しいものだ。

 ということで、所属する企業グループで法人同士が結束して何か打開策を練るべしと命が下った。そして、何の手違いか私も参加することになったのだが……とにかく面白いように対策がまとまらない。

 まず各社ごとに組織構成が異なる。なるべく共通する部分を探ってジョイントしようとしても、無闇に会議メンバーが増えたり、もしくは対応する人員が社によってはいなかったりする。また、やはり会社ごとに思惑や狙いも違うから、総論賛成各論反対は日常茶飯事である。それなりの利点がないと進まないのはお互い様で、落としどころを探すだけで何ヶ月もかかる。会社の規模でいうと500名程度の従業員を持つところが4社ほど。後はそれより規模の小さい社が4社程度。大きな道筋として「出版は変わらなければ」という認識は共有できるが、直近の売上推移や、会社間での過去の因縁の方が大きな問題になってしまう。軍役の規模でいうと大小色々の国衆になろうか。大名どころか将軍権力でも苦労した国衆の諍い・私闘の根源を見ているようで興味深い。

 グループ各社の上には、昨今多く見られる持ち株会社が位置している。各社の利害関係を調整して、最終的にグループ全体の収益を上げる役割。これは国衆を統制する大名のような存在だ。大きな枠組みでプロジェクトを組んだり、今回のようにタスクフォースを組ませたりする。それはそれでメリットがあるのだろうけれど、匙加減が難しい。事業の現場から遠過ぎると意味のない作戦を組むし、近過ぎたらそれはそれで現場に負担がかかる。結局形ばかりの調整機関になりがちだ。

 こうした苦労は昔も今も変わらないのだろう。象牙の塔の外側から歴史を調べる身としては、因果関係がすっきりしない解釈も試みてみたいと思う。「結果として大勝利だったものの、なぜ勝ったかは誰にも判らない」なんてことはざらにあるものだ。

史料を何度も見ているうち、最初の解釈の通りではないかも知れないと気づいた。

何方之押ニ候哉、

 まず氏政はここで質問している。「押」というのは部隊を繰り出す部分を指す。この質問と文末「乍次申候」から考えて、出撃地点の決定は氏邦が行なう可能性が高い。つまり、氏政はこの作戦で「お客さん的援軍」なのだと思われる。

昨日の所ならハ、

 既に前日攻撃している範囲を指している。前日とは異なる場所に繰り出す可能性があるということだ。

昨日の松山与上州衆あかり候高山と、

 同じく前日のことを指す。ここを私は「松山衆と上州衆が上がった」と解釈した。

A案:松山・上州衆が上がった高山と

と考えたのだが、松山も知名であり、高山と並立するとする読み方もある。

B案:松山と、上州の衆が上がった高山と、

 つまり、松山は説明なしだが、高山については「上州の衆が上がった」という説明が付記されているという読み方だ。こう解釈すると、続く文が自然に流れてくる。

其間往覆の道ニなわしろ共多候キ

 「その間」をA案で考慮すると、高山に呼応する場所が判らなくなる。走り書きのような書状なので、一先ず「敵の城」と仮定してみたが若干苦しい。その点B案ならば、松山と高山の間の往還を指すのは自明である。

 次に、松山は単に名称だけ呼び、高山は修辞をつけた要因について考える。氏政は「松山はよいが高山は説明を入れたい」と考えたのだろう。その理由として2つ考えられる。

C案:氏邦が近辺の地理に不案内で、氏政から説明が必要だった。
D案:氏政が近辺の地理に不案内で、氏邦に説明できるか不安だった。

 C案は、直接指揮下にある上州衆が赴いた地点を氏邦が把握していないのは不自然だ。どちらかといえばD案、氏政の方が不案内で、高山という地名に確信が持てず「上州の衆が上がった」と足すことで、誤認識の危険を避けたのだと思う。

 誤認識の忌避でいうなら、「松山」「高山」は固有の地名だと推測した方がよい。「松が多い山」、「小高い山」を記述した可能性も残るが、短文とはいえ戦術指示書で曖昧な地名を付すとは考えにくい。高山については上州衆が上がった地点だから具体的だが、それでも取り違える可能性は残される。ましてや、「松が多い山」などと言ってもどの山かは特定できない。

 後北条氏にとって自明の「松山」といえば埼玉県東松山市の松山城だが、1581(天正9)年以降で戦闘が行なわれた史料はないし、状況からいって考えにくい。

 また、高山城というと、群馬県藤岡市南西に大規模な山城として存在する。しかし、この拠点は後北条氏にとって天文末年の平井城攻めからの馴染みの城であるから氏政のうろ覚えと矛盾する。北方の榛名南西麓に「松山城」もあるものの、かなり距離があるし直接つながっている古道も見当たらない。この線は薄いだろう。

 地理的な面から考慮すると、松山と高山のセットをどこかで見つける必要がありそうだ。

2007年8月27日の桶狭間合戦に挑むが最初のエントリだった。

このサイトを開設してちょうど5年目となる(実際にはその前に同じドメインでPukiwikiを使ったプレサイトもあったが、余り更新していなかったのでカウントしていない)。これも一つの契機、日頃思っていることを取り留めなく書いてみようと思う。

いわゆる『桶狭間合戦』(このサイトでは『鳴海原合戦』)について、1次史料だけで再構築しようと考えていたのだが……思ったより史料の読み込みが必要で、データ入力作業をしているだけの展開になっている。5年を経て登録文書数は未だ千にも満たぬ。

現在の主題である鳴海原合戦については、2~3の仮説は既に出来上がっている。とはいえ戦国遺文今川氏編の完結が2013年秋となるため、それを待って仮説を完成できればと考えている状態だ。後2年といったところか……。

私事だが、去る3月の初旬に心臓を患うこととなった。不惑を大きく越えて桑年の方が近くなってしまった身。『終わり』は意識していたが、これ程強烈に思い知らされるとは予期していなかった。発作時の対応を誤らず無理をしなければ何事もないのだが、油断は禁物と医師に言われている。

一方奇遇なことに、生業も多事多端となってきた。私が勤めているのは小さな出版社だが、最早斜陽となって長い業界だから大変だったりする。ここ数年は、自分の部署だけではなく全社案件を扱う事が激増しているが、今夏から兄弟会社の諮問も相次いでいる。恐らく後1年は落ち着かないだろう。

とにもかくにも、図書館や古書店に立ち寄る回数も減り、歴史への着想に思いを巡らす頻度も落ちてきた。この隙のなさとGalaxyNoteによる古文書入力の簡便さから、ついついサイトの内容も文書アップばかりになっている。これは少し危険で、文書を読む度に小さな発見や解釈の迷いがあって「今度まとめてみよう」と思いつつも放置している。これを書き残しておかなければ、私の半端な解釈がそのまま流布してしまいそうだ。何とかせねば。

今振り返ると、5年前の文書解釈は結構未熟だ。それなりに解釈をこなしてきた目で見ると汗顔の至りである。何れ修正を試みたい。などと偉そうに書いているが、私は完全に自己流の解釈でしかない。以前「下行米」への指摘を匿名の方から頂戴したが、このような系統だった知識がないのだ(高校2年の日本史が最後)。戦国期の文書は解釈が難しく、識者の方もまだまだ勘で解釈している部分があると思う。だから私のような素人が跋扈する余地があるのだけれど、それでよいのかは自分でも疑問に思う。

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Androidでの文字入力が楽過ぎて、古文書のテキスト化と解釈作成もPCから移行しつつある。旧字体の入力にしてもマイナーな字だとWindowsではマウスによる手書きになる訳だから、始めから手入力の方が早い。

とはいえ、Android端末なら全てが手書きに適しているのではない。『mazec』を最大限に使うには、ペン入力と巨大な画面が必要になる。だからといってiPadのような大型タブレットだと持ち歩きに不便だし、太い静電式ペンは扱いが面倒だ。

そこで私が使っているのは5.3インチの適切な画面と電磁誘導式ペン入力に対応した『GalaxyNote』だったりする。

写真で一緒に写っているのはLenovoの『ThinkPadX61 Tablet』用の電磁誘導式ペン。ペン先がちゃんとあるので、ボールペンのような書き心地だ。本体に内蔵できる標準ペンもあるが、小さくて使いづらいので収納したまま。

GalaxyNoteは、NTTドコモから発売されるかも。歴史好きはぜひ触ってみてほしい。

漸く手が空く目途が立ってきた。来期予算の可否で部署の面々とその家族の1年の生活が変わるだけに、毎年苦しむ。

そんな折は戦国の小領主に思いを馳せる。私の場合、どんなに失敗しても死者は出ない。それでも部下が増える度にプレッシャーが相乗的に高くなっていく。上杉と後北条に挟まれ、とにかく被害を最小限に抑えた関東諸将は偉いと改めて思う。日和見野郎と蔑まれ、捨て駒として放置されたり梯子を外されて外交上行き場をなくしたりしながら、領域を守り続けた。捨て駒・梯子外しは現代でも健在で、ほんの少しだがその苦労が判る気がする。色々と大変な時期だが、先人に負けないように発奮せねば。

『戦国北条五代』(黒田基樹著・戎光祥出版)が出版されていたので即座に購入。2005年に新人物往来社から刊行されていた『戦国北条ー族』を大幅に修正したものという。

ちなみに同社から昨年出る予定だった『織田信長の尾張時代』は今年にずれ込んだ模様。

ここのところ通勤時間を業務とブログ記事に当てているので読む本が溜まっている。金子拓著の『記憶と歴史学』は特に精読しようと考えているのだが……『上杉謙信の夢と野望』も未読だし。2~3月に『戦国遺文今川氏編』最終巻が出るまでに、予算編成を含めて落ち着いていることを真剣に祈る。

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年の瀬も押し迫り、また狂躁の時節が到来した。これより如月の中頃まで生業が喧しくなる。記事も史料アップも暫時滞るだろう。だからという訳ではないが、少しくは思いつくままの書付を散らしてみようと考えた。文献の裏付けもなく脈絡も怪しいものだが、日頃浮かんで消えていく着想を綴っていければ何かに繋がるかも知れないという下心もある。

細録を付ける理由として、携帯端末(Android)+漢字手入力(mazec)で歴史記事を作る効用の実験をしてみたいという事がある。現代語に最適化された文字入力では、単漢字変換が主になる。「治部」と書きたい場合、「じ」と「ぶ」で変換するが、それぞれ変換候補が多いので、私は「おさむ」と「ぶい」とー旦入れて「部位」の「位」を消している。これはフルキーボードでも手間なので、1Oキーやフリックでは諦めていた。何より、文学入力のために思考を切り替えてしまうと、戻ってくるのが難儀だった。mazecなら直接「治部大輔」と書くだけでよい。iPhoneのタッチインタフェースには納得がいかなかったが、これならメリットが感じられる。

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