検証a27:松平蔵人佐の血脈
西三河最大の国人で、安心軒とともに三河国宗主権を保持していたと思われる「松平蔵人佐」について、記載文書を抽出してみた。 A:1523(大永3)年~1526(大永6)年9月 松平一門・家臣奉加帳写 「弐千疋 松平蔵人佐 …
西三河最大の国人で、安心軒とともに三河国宗主権を保持していたと思われる「松平蔵人佐」について、記載文書を抽出してみた。 A:1523(大永3)年~1526(大永6)年9月 松平一門・家臣奉加帳写 「弐千疋 松平蔵人佐 …
三河国の大給城に拠点を置いた大給松平氏が、今川氏にどのように扱われていたかを史料から考察する。まず、永正期に伊勢宗瑞指揮下、信濃国小笠原氏と共同で行なった遠江・三河遠征に関係するものを挙げる。 A:1516(永正13) …
服属した三河国人を、今川氏がどのように扱ったを提示してみようと思う。牧野保成は、1546(天文15)年には今川氏に所属している。 1546(天文15)年10月16日 牧野保成条目写 所領の不入を今川氏奉行に認定してもら …
主に今川氏から見た『岡崎』の帰属について列挙。天文後半から永禄初頭までをまとめたが、その動向は一定ではない。 1548(天文17)年3月11日 不明 織田方に攻囲・接収? 仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城 …
より大きな地図で 奥三河関係図 を表示 青ポイント 今川方 水色ポイント 武田方 緑ポイント 遠山・広瀬・鱸の各氏 黄色 帰属不明
1553(天文22)年 3月21日 今川義元は奥平定勝の諸権益を安堵する 9月4日 菅沼伊賀が返り忠したと今川義元に賞される 今川義元は北三河の奥平定勝の諸権益を安堵している。これは奥三河から反今川勢力を一掃する方針だっ …
より大きな地図で 小豆坂合戦関連図 を表示 拠点凡例: 紫=人質や年貢の集積を行なう政庁機能もある拠点 青=複数の文書に登場する地域的な拠点 水色=単一の文書に登場し「取立」の語を伴う臨時拠点 岡崎 今川・織田のどちらか …
小豆坂合戦は1548(天文17)年3月19日に行なわれたことが確認できるが、松井惣左衛門宛の義元感状を見ると 「於西三河小豆坂尾州馳合、最前入馬尽粉骨、宗信同前為殿之条」 (西三河小豆坂において尾張方と戦闘し、前線に馬 …
アップした関連古文書に丹羽氏は3名登場する。 01)1525(大永5)年 水野氏被官の丹羽五郎左衛門(楞厳寺寄進状) 02)1550(天文19)年 今川氏被官の丹羽隼人佐(今川義元判物) 03)1553(天文22)年 …
6月8日の今川氏真判物によると、岡部元信の率いる部隊は鳴海城を撤収し、その後刈谷城を攻撃して水野藤九郎を討ち取ったという。 1560年6月8日氏真判物 ところが、氏真が同年9月1日に出した判物では刈谷攻落は記載されて …