下巻に入ると、文体が面白いように変わっている。ようやくディケンズらしさが出てきたというべきか、無意味な前置きやわざとらしい言い回しは影を潜め、伸び伸びとした人物描写が光っている。ピクウィック氏が債務者監獄に入れられると、これでもかとばかりに貧困の悲惨さが繰り返される。ここもディケンズらしさの最初の源流と言えるだろう。
 ジンクスとトロッターが改心していく様子も興味深かった。ムニャムニャと感謝するジンクス、鉄の意志で仁義を通すトロッター。特にトロッターが登場時とはまるで違うキャラクターになっている。個人的には、ピクウィック氏に感化されてからのトロッターがこの作中で最も面白かった。
 最後の辺りもウィンクルとサム・ウェラーがメインになっている。その他の人物も、この二人に絡む人物が活躍している。ウィンクルのほうは、アラベラ(ウィンクルの妻)、アラベラの兄とその友人、ウィンクルの父親。サムだと、メアリー(サムの妻)、トニー・ウェラー(父親)、トニーの後妻という顔ぶれ。初期登場人物では設定できないようなドタバタ振りを、彼らが振りまいている。
 微妙に登場し続けたのが、ウォードル氏の召使である『太った少年』ジョー。メアリーに色目を使ったり、相変わらずの食う・寝るぶりが愉快だ。ウォードルの寝室に閉じ込められたスノッドグラースを発見した件は、本作一番の痛快さを持っている。
 そして、ピクウィック氏を敗訴に追い込み訴訟費用をまんまとせしめたドットソンとフォッグがそのまま成功していることにも注目したい。最初の長編からして、ディケンズは勧善懲悪に異を唱えていた。複雑なストーリーと曖昧な善悪性がディケンズの後期小説の特長だと言われるが、既にその萌芽は見られたのである。

 サム・ウェラーの調子が上がりっ放しになってきた中巻は、その前段階では行き当たりばったりだったストーリーが少し形作られていくような展開。サムのほか、ウィンクルも恋模様を見せ始める。スノッドグラースは上巻で既に恋愛モードに入っているが、ウィンクルは意外だった。その一方で、偽カサノバのタップマンがさっぱり姿を見せなくなりつつある(タップマンはスノッドグラース・ウィンクルより年嵩、ピクウィック氏よりは年下らしい)。
 解説の中で、ピクウィック+サム・ウェラー=ドン・キホーテ+サンチョ・パンサの相似形が語られていた。従者としてのサムはサンチョ・パンサを髣髴とさせるので容易に思い浮かぶが、ピクウィックの原型がドン・キホーテにあるという指摘は面白かった。理想主義者でお人好し、しかも世間知らずという設定は確かに似ている。ドストエフスキーがこの流れを作ろうとして『白痴』のムイシュキン公爵を創造したが、自身で及ばないと告白したという。
 ディケンズ作品ではお馴染みの裁判シーンが早速出てきていた。ここだけは何とも冗長過ぎる気がする。『荒涼館』ぐらいになると本筋に裁判が組み込まれているので納得できるのだが……。当時の裁判を研究している人には参考になるとは思うが、文学を読むには余りに細かいし、同時代でないと判らない点が多い。
 その他、『リトル・ドリット』で頂点を極める陰惨なプロテスタントの教義も、サム・ウェラーの義母に絡んでて登場している。
 ディケンズがその後展開したモチーフとしては、救貧院・身分格差・債務者監獄・拝金主義があるが、この辺りは下巻でも見られそうな感じがする。やはり作家の処女長編には、その後の要素が凝縮されているのだろう。

 ディケンズ最初の長編。この連載小説が始まって世界は大衆小説を知ることとなったという伝説の作品だが、実は1回しか読んでいない。何故なら読みづらかったから。セルバンテスの『ドン・キホーテ』ほど古い文体ではないものの、後のディケンズ作品から見ると非常に回りくどくて長ったらしい。
 ディケンズの筆力・企画力が奔放で、コンビを組まされた画家のロバート・シーモアは自殺してしまった。当時は絵がメインでそれに短文が添えられるのが通常だった。出版社もそのような狙いを持っていたそうだ。ところが、駆け出しの24歳は妥協をしなかった。
 とはいえ、サム・ウェラーという登場人物が出てくるまでは人気もなかったらしい。
 女を口説けないカサノバ『タップマン』、運動音痴のスポーツマン『ウィンクル』、文才のない詩人『スノッドグラース』が脇を固め、偉大なるお人好し『ピクウィック』がイギリス国内を旅行するというのが当初の狙い。で、ディケンズは最初から画家を食ってしまうつもりで『裏ピクウィック』みたいな悪の化身を用意した。それが腹黒い好人物『ジングル』である。
 サムの人気が出てからは、ジングルの相方として『トロッター』という悪の召使を繰り出してきた。本当に筋書きのないドラマで、行き当たりばったりである。後期作品が好きな私は敬遠していたのだが、読んでみると意外と面白かった。
 古い形式なので作中作として様々な短編小説が読めたのもよかった。やっぱりこの溢れるような文体がディケンズの本領なのだろう。後期好きには少し悔しいところ。

 意外と早く読了。後半はいままでの伏線(若マーティンを援助したのは誰か、老マーティンはペックスニフに洗脳されたのか、謎の入院患者は誰か)が一気に解き明かされつつ、若マーティンとジョン・ウェストロックの恋愛が成就される。この辺りは割と前期作風の奔放な筆致が活きている。
 その一方、ジョーナス・チャズルウィットの殺人とその謎解きは後期の重厚な構成の先触れを成す。また、ペックスニフの一族はディケンズ作風で余り出てこないパターンだったので興味深い。ジョーナスに虐げられた挙句未亡人となったメリー、結婚式をすっぽかされたその姉チャリティ、零落したのに恩着せがましくトム・ピンチにたかる偽善者ペックスニフ(メリー・チャリティの父)。それぞれが滑稽な面を発揮している。
 滑稽な悪役はディケンズだとよく登場するが、『間抜け』ぶりはペックスニフが群を抜いている感じがする。最終的に偽善の仮面を剥ぎ取られて辱められるシーンでも、追求者一同の怒りと噛み合わない言動を示していたりする。『リトル・ドリット』では悪役だか善玉だかよく判らない人物が出てくるが、そのプロトタイプの一つなのだろうか。
 メリーは不幸な結婚が終わって新たな人生を始める。下巻も押し迫ってきて、ディケンズが急速にこの人物に注目し始めているのが判った。とはいえ『利己心』をモチーフとした本筋からは逸脱してしまうので自重したのではないかと思う。彼女は恋にあぶれたトムと結ばれるのかと思ったが、最後のエピソードでトムは独身のまま老いていったという描写があった。善意の権化であるトムがそれ故に自己犠牲を強いられるという矛盾は、『骨董屋』のネリーがその純粋さから夭逝するのと似ている。
 しかし、上巻・中巻の異常な退屈さは何だったのだろう……。後半は普通のディケンズだったのに。

 ようやく読了。前半は「これでもディケンズか」という程のつまらなさだった。若マーティンがアメリカに渡りエデンの入植生活で苦労するくだりも、同時代性やイギリス人の心象がないとよく事情が判らない。とはいえ、アメリカが独立当初から持つ問題(独善主義・銃社会・貴族社会への奇妙な憧憬)はこれでもかとばかりに描かれている。そういう意味では興味深いが、いかんせん、くどい。ディケンズはアメリカに行って相当いやな思いをしたのだろう。
 ペックスニフがメアリーに求婚して拒絶され、トムがペックスニフの虚像を自覚する辺りから、物語は俄然面白くなった。やっとディケンズらしくなった気がする。ということは、翻訳に難があるというより、中巻前半で登場する人物たちが退屈だったことになる。ペックスニフ・ギャンプ夫人・そして戯画化されたアメリカ人たちのことだ。どちらも道化回しとして中途半端なのかも知れない。もう1点、物語の鍵を握る老マーティンが精彩を欠いている。この老人はもっと描き込まれてよいと思うのだが。
 結局、若マーティンはアメリカでの苦労で成長して早々にイギリスに戻る。アメリカ行きが主題だったのでは? と思うほどあっさりと帰英してしまうのだ。カフカの『アメリカ』のほうが気が利いているように感じられた。
 ジョーナスの造形は引き続き面白い。前期作品に見られる荒っぽい悪役と、後期作品に見られる複雑な悪役が入り混じっている。相手が間抜けな悪役を演じることで「自分のほうが悪役として上手である」と自惚れる描写があるが、なるほどと思った。
 主要な人物が少しずつロンドンに集まっていくことで物語はいよいよ緊密になり、下巻に続く。こちらは楽しく読めそうだ。

 結構苦手な作品だったので、読むのは今回が2度目。ディケンズ前期作品に見られる行き当たりばったりな展開もありつつ、主人公がアメリカに渡るまでの筋運びが異常に長い気がした。ディケンズが作った人物でも出色の俗物ペックスニフが登場するのだが……その他の人物には余りオーラが感じられない。
 独善主義の若マーティンがアメリカで苦労して改心するのだろうけど、アメリカ批判が冗長で観念的過ぎる感じがした。従者マークが『ピクウィック』のサム・ウェラーの出来損ないみたいだし、いまひとつ興が乗らないところ。父親殺しのジョーナス・チャズルウィットは面白い。有名なギャンプ夫人がどれだけ活躍するかにも期待が持てる。
 結局、悪役ぐらいしか精彩がないということか。もしくは本当の意味での悪漢小説なのか。

 読了して改めて思ったが、日本ではこの作品がディケンズの代表作になっているのが不思議だ。解説の中野好夫も書いているが、後期作品の割には『ご都合主義』に凝り固まっている感じ。マダム・ドファルジュの最期しかり、クランチャーの悔悟しかり、そしてドルトル・マネットの退行しかり。これが『荒涼館』だったら、グチャグチャのままさらに混迷させる力技も見せてくれただろうに……と思う。
 ただ、カートンとお針子の静かなやり取りは読み応えがある。哀感と諦観が組み合わさって、身代わりとして死にゆく男と冤罪の少女が一対の偶像に昇華していく様子は圧巻。死刑執行の直前まで経験したドストエフスキーのような異様なリアリティは薄いものの、情景とストーリーを巧みに混ぜ込んでいる。ギロチンによる死刑執行に沸き立つ群衆からカートンとお針子を見ていたと思うと、あっという間に視点が切り替わって、二人だけの緊密な交感にフォーカスしたり。ペンが踊るように走っていて、このシーンは何度読んでも飽きることがない。もう少し大時代な筆致でなければ……と思ってしまうのだが、これは現代人の驕りかも知れない。

 何故か書棚からなくなっていたので、改めて買い直して読んでいる。これが2度目になるが、最初に読んでから10年以上経過しているので初読に近い。
 フランス革命に巻き込まれたドクトル・マネットが中心になるが、今回は『モンテ・クリスト伯』(1846年)を読んでいたので影響がよく判った。チャールズ・ダーニー、ルーシー・マネットは余り印象がなかったが、今回もディケンズの手駒っぽさが消えない。ストライバーとシドニー・カートンのコンビは、『OMF』のライトウッドとレイバーンに似ている(4人とも弁護士)。ただ、ライトウッドが善人なのに対してストライバーは世俗的な小悪人。
 フランス革命の描写については、歴史的に古臭い解釈をしているためかチグハグ感が大きい。最近の研究では、フランス革命によってかえって国民経済は困窮したというデータも存在する。ディケンズは歴史作家ではなかったという証左ではあるが、やはり少し残念。
 脇役連ではミスター・ロリーがとてもグッド。自らを「事務屋」と称しつつも人情味を発揮し、銀行員としての体裁と人間性を両立する。横柄なストライバーがルーシーへ求婚しようとするのを、上手に回避する件はディケンズならではの妙味だ。引き続き下巻へ……。

 ディケンズの長編としては、比較的短い作品ではあるが……かなり読み足りない感じがあった。キットが冤罪を晴らしてネルに会いに行くくだりはそれなりに追い込みが感じられて楽しかったのだが、オリバー・ツイストのほうが迫力はあった。この辺りにも、躍動感溢れる前期作品と重厚な後期作品の合いの子さが感じられる。
 天使のようなネルよりも、公爵夫人やバーバラのほうが余程神々しさを感じてしまう。クイルプの怪人ぶりよりも、ブラース兄妹のほうが悪意を感じてしまうようなものか。クイルプは陰謀の名手な筈が、後半はグロテスクさを強調し過ぎて興醒め。ホラー映画で魔物が姿を顕わすと間抜けになってしまうような感じかも知れない。
 もうちょっとタイトな結末が希望だが、これはこれで楽しめた。やはりディケンズは凄い。しかしネリーは魅力がないことを再確認。好みの問題もあるだろうけど、公爵夫人が一番タフで可愛らしい造形になっていた。エイミー・ドリットよりも女性の勇猛さや狡猾さが表われている。

 ちくま文庫、北川悌二訳。この作品は結構苦手で、一読はしているがその後3回ほど読みかけで放置していた。ネルへの感情移入ができないので、現在でも読んでいてしんどい。ネルは自業自得だと思ってしまう。恐らく、私には「肉親のために献身する」という美徳が根本的に欠如しているのだろう。
 ちょうど、前期と後期の中間ぐらいの作風なのも中途半端で思い入れが湧かないのかと思われる。行き当たりばったりな筋運びなのだが、人物描写を含めて踊るような筆致ではなく技巧派への転換が見られる。チグハグさを感じてしまう。
 それと翻訳が私と合わない。会話はいいのだが、風景描写は翻訳が厳しい。直訳寄り過ぎる。
 ストーリーとしては悲劇の少女というありがちな展開。ただ、言われるほどネルは純粋じゃないような気がしている。状況に流されることで責任をとっていないんじゃないかと思えている。
 前回読んだ時よりも、悪役クイルプが面白い。エネルギッシュで狡猾ではあるのだが、21世紀の現実社会から見たら、さほどの悪役とは思えなかった。欲望に一直線の、単純で愛すべきキャラクターではないか。
 解説を読んで思い出したが、ディック(リチャード・スウィヴェラー)と女中『公爵夫人』のネタがあった。この話は下巻に向けてとても楽しみである。私の好きなリトル・ドリットの原型が感じられる。何故忘れていたのか不思議。