Project Gutenbergもどきを発想してみた
日本史を調べる人向けの電子サービスがないものかと、少しネットを徘徊してみた。 ジャパンナレッジ 吉川弘文館の『国史大辞典WEB版』が入っている。クレジット課金で月額2,100円で膨大な量の辞典検索ができる(歴史以外の辞書 …
日本史を調べる人向けの電子サービスがないものかと、少しネットを徘徊してみた。 ジャパンナレッジ 吉川弘文館の『国史大辞典WEB版』が入っている。クレジット課金で月額2,100円で膨大な量の辞典検索ができる(歴史以外の辞書 …
先日の書評『空白の桶狭間』で触れた、1560(永禄3)年5月19日に氏真が義元に同陣したかの検証を行なってみる。 基本的な情報はこのサイト内の鳴海原合戦時系列による。こちらをご参照のほど。 05月06日、氏真は神原三郎左 …
■序■ 後北条・今川・武田女系閨閥図 種徳寺殿の正体について検討していく中で、改めて後北条代々の当主正室が気になってきた。あくまで暫定のものだが、後北条年表と家臣団人名辞典から閨閥のつながりを表にしてみた。私の仮説も織り …
竹王丸というと、1533(天文2)年7月に山科言継が尾張国で出会った今川竹王丸が有名である。俗に『氏豊』とも呼ばれる人物は、その後姿を消す。 今川本家が嫡男に用いる幼名は竜王丸(たつおうまる)。「たけおうまる」はこの読み …
畏友マリコ・ポーロ氏のブログ『後北条見聞録』の10月11日の記事「玉縄城主・北条為昌の菩提寺で、ビビッときた氏綱ご正室の出自」にて、氏康生母と思われる養珠院殿が、小笠原氏に関係しているという説が提示されていた。とても興味 …
余りに考証がひどい小説を読んだので、記録しておこうと思う。本来小説は文学として表現されているもので、厳密な史料批判を行なうべき対象ではない。それは承知しているものの、今回取り上げる『空白の桶狭間』(加藤廣著・新潮文庫)で …
日頃目にしない鎌倉~南北朝の資料を見た際に「着到状」が後北条のそれと激しく乖離していたため、少し考え込んでしまった。 判り易く説明すると以下のような流れになる。 ■鎌倉~南北朝 部将「ただいま部隊が加わった。これが着到状 …
戦国大名で自家宛の文書をきちんと残せている家は少ない。大きな大名では毛利と島津、上杉ぐらいではないだろうか。今川・武田は恐らく焼失したのだと思われる。その中で、後北条の文書の不在が気になって仕方がない。 小田原が開城した …
1590(天正18)年の8月より後北条分国は徳川家が入封する。以降石垣山がどうなったかを少し考えてみたいと思う。 江戸を本城とした徳川家だったが、1603(慶長8)年に本格着工するまでは暫定的な本拠に過ぎず、分国内で最大 …
小田原合戦の推移 戦争を指揮していた氏政は、小峯御鐘台を中心とした丘陵地を一族で固め、台風を待っていたのだと思う。井細田や渋取川のラインを突破されたとしても、山上に踏み留まればよいと。現在の暦で8月中旬以降は台風が来易い …