井伊谷の帰属 1 今川氏による徳政の失敗
遠江国の国衆である井伊氏については、永禄年間は今川方に付いていることが確認できる。しかし、その後1582(天正10)年に徳川家康側近として井伊直政が現われるまでの事蹟は伝わっていない。今川方として井伊谷で最後に活動して …
遠江国の国衆である井伊氏については、永禄年間は今川方に付いていることが確認できる。しかし、その後1582(天正10)年に徳川家康側近として井伊直政が現われるまでの事蹟は伝わっていない。今川方として井伊谷で最後に活動して …
今川家中に佐竹氏がいたので、ちょっとまとめてみた。初出は、今川義元が戦死する直前。掛川にある朝比奈備中守家の菩提寺常安寺のこと。 1560(永禄3)年5月2日 朝比奈泰朝は、佐竹丹波入道宛に、丹波入道の塔頭昌吉斎を乗安 …
Spamコメントが多かったため、年末よりSpamコメントのブラックリスト「bsb.spamlookup.net」を使用していました。このリストの効力が国内IPに及んでいたため、正規のコメントも受け付けられていない状態にな …
ひとまず、自分の頭の中で今川義元の死について疑問はクリアされた。何れこの事件のあらましを再構築せねばならないだろう。 西三河国衆の家格から考えて、義元が姪婿に選んだのは吉良義昭ではないかという仮説は、史料が極端に少ない中 …
1月8日にこのサイトで不正ファイルが置かれていたのでご報告。9~12日にメンテナンスモードになっていたのは原因究明と対応のためだった。 CMSとしてWordpressを利用しているが、このCMSは全世界で60%のシェアを …
西三河入りした今川義元はこの地域を安定させるべく、以下の3つの要素に対応する必要があった。 吉良氏・水野氏の完全服属 美濃遠山氏の排除 尾張織田氏の排除 吉良氏については未調査の部分が多く、これから考察を重ねなければなら …
今川義元の三河出馬について、政治的名理由を考察してみた。 まとめると、三河国衆を取りまとめるために義元自身と松平元康の出征が必要だったという点を基点として、以下の要素を含んでいる。 ■嫡男を長期間もうけられないでいる氏真 …
今川氏真、武田義信が嫡男をもうけられなかったことから三国同盟が崩壊に向かったことを検討してきた。このことは徳川信康にも該当すると余談で取り上げたが、実は北条氏直も同じ問題を抱えていたようだ。 北条氏直は1583(天正11 …
史料漁りは完了した。本当はもっとほしいところだが、ないものはないので今仮説をまとめている。とはいえかなり複雑な構造になりそうだし、要点も多岐にわたるため、覚書を縷々記していこうと思う。 まず最初に、私のこの仮説では太田牛 …
『謎とき 東北の関ヶ原』(光文社新書・2014年刊)にて、著者の渡邊大門氏が以下のように書いている。 大名の書状中においては、使者などを略称で表記するのは自然なことである。しかし、兼続が相手方の人物に対して、略称を用いる …