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ひとまず、自分の頭の中で今川義元の死について疑問はクリアされた。何れこの事件のあらましを再構築せねばならないだろう。

西三河国衆の家格から考えて、義元が姪婿に選んだのは吉良義昭ではないかという仮説は、史料が極端に少ない中での憶測でしかない。後に徳川家康が嫡男信康を切腹させ、正室清池院殿を殺害した理由として、義昭からの強奪を検討した。ただ、それならば後に信康は実子ではなかったと徳川家御用史観で片がつけられる筈だと思い直した。

家康がクーデター前に義昭と交戦を始めたのは、西三河で最大の競合相手となる勢力を潰しておこうと考えてのことだろう。

この後、3月中に戦国遺文の今川氏編最終巻が刊行されるだろう。これまでアップしていなかった文書を整理しつつ、データが網羅されるのを静かに迎えようと思う。

1月8日にこのサイトで不正ファイルが置かれていたのでご報告。9~12日にメンテナンスモードになっていたのは原因究明と対応のためだった。

CMSとしてWordpressを利用しているが、このCMSは全世界で60%のシェアを持っているためにサイバー攻撃も集中し易く、昨年頃から管理者アカウントへの不正ログインを試みるアクセスは1日で数百件にのぼった。
座視もできないので安全策はある程度講じていた。

  1. adminアカウントの削除
  2. 管理パスワードの強化(6桁から13桁へ変更・独自認証追加)
  3. wp-admin配下の海外アクセス禁止
  4. 1週間ごとにアクセスログの容量をチェック(Bluteforth除け)

ところが、Wordpressがインストールされているディレクトリに、見知らぬファイルが4つ置かれていた(txt/cie.txt/config.txt/config1.txt)。それぞれは単なるテキストファイルだったが、cie.txtには外部から定期的にアクセスがあった。このcie.txtには「Hacked by Mr. DellatioNx196」という文字列だけが入っている。

アクセスログを見たところ、Wordpressのプラグイン「category and page icons」の脆弱性を衝かれていたことが判明した。

180.211.91.94 – – [08/Jan/2015:12:06:29 +0900] “GET /cie-x.txt HTTP/1.1” 404 33 “https://old.rek.jp/wp-content/plugins/category-page-icons/include/wpdev-flash-uploader.php” “Mozilla/5.0 (Windows NT 5.1) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/38.0.2125.122 Safari/537.36”

このアクセス自体は404で返しているものの、実際にcie.txtは存在しているので、wpdev-flash-uploader.phpが関与していることは間違いない。攻撃元のIPアドレスはロシアだったが、恐らく単なる踏み台だろう。

対応策として、このプラグインの作者にメールを送り、include以下のファイルへのアクセスを遮断した。

wp-adminを閉じたとしても、テーマ・プラグインでファイルコントロール系のスクリプトが含まれている場合は注意が必要だというのが今回の教訓。

ただ気になっているのが、20日が経過した現在もcie.txtへのアクセスを試みる通信がある点。アクセス元は「xxxxx.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp」(xxxxxはこちらで伏せた)で、プロバイダーasahi-netにつながっている個人用ルータではないかと思う。ご覧になっている方でasahi-netをお使いの方はルータの設定をご確認いただければ幸いである。

西三河入りした今川義元はこの地域を安定させるべく、以下の3つの要素に対応する必要があった。

  1. 吉良氏・水野氏の完全服属
  2. 美濃遠山氏の排除
  3. 尾張織田氏の排除

吉良氏については未調査の部分が多く、これから考察を重ねなければならない。しかし、吉良義安と今川氏真は互いの嫡男・嫡女を相互に娶わせていることから、検証a39で考えた『松平元康後継者説』に自ら疑問を持つようになった。西三河国衆の代表的存在で、松平各氏の惣領的存在であるとはいえ、松平元康の出自は低い。更に大給松平氏などは既に直臣化している。それよりは吉良義安か義昭の兄弟どちらかに姪を嫁がせた方が家格や影響力から考えても効率がよい。

そうなると気になってくるのが、1561(永禄4)年4月11日に牛久保を夜襲するクーデターの直前に吉良東条城を攻めている点だ(4月5日に感状がある)。意表をつくのであれば事前に独自の動きをしない方が得策なのだが。今川氏に反した義昭を攻撃したのだとしても、クーデター後にも攻撃を続けている。全くもって謎の行動だと言わざるを得ない。

まだまだ証拠はないものの、吉良義昭に嫁していた清池院殿と信康・亀姫を自分の妻子にするために追い落としたのかも知れない。この頃三河の人質は吉田から岡崎に移っていたので、清池院殿たちが吉良家の人質として岡崎にいた可能性は高い(義元姪であるからそれなりの待遇は得ていただろうけれど)。後年、次男・三男が確定した際に清池院殿と信康が抹殺されたことを考えると、このような裏事情があったのではないかと勘繰りたくなる。

水野氏については、鳴海・大高の封鎖で締め上げていたことは既述の通り。これにつられて織田氏をこの方面に張り付かせることも狙っていたと考えている。

というのは、単純に尾張と交戦するなら、敵の敵である美濃斎藤氏と共同作戦をとるのが一般的である。だが、検証a42で検討した通り、東美濃の遠山氏は武田氏に従属しており、この遠山氏につられて武田氏は斎藤氏と敵対して織田氏と結んでいた。この状況では斎藤氏と通信することは難しい。また、積極的に織田氏を攻めることも、よほどの理由がないと行なえまい。

義元が採った戦略は、自らの分国内にいる水野氏を追い込みつつ織田氏を挑発し、結果的に濃尾国境の織田方を手薄にするという消極策だったと推測している。

一方でこれに伴い、過去何度も三河に乱入してきている遠山氏を義元は警戒し、武節城に天野・菅沼などを配している。天野氏は松井・岡部と並ぶ武功の一族であるから、本来なら遠山氏は押さえ込まれる筈だったが、義元が敗死した当日に武節城は攻撃されている。これは注目すべきだと思う。1560(永禄3)年5月19日に行なわれた戦闘は、大高城周辺・鳴海原・武節城となる。織田が全力で大高・鳴海を攻撃している間は、遠山が斎藤を牽制しているのなら判りやすいのだが、織田・遠山は日を合わせて今川方を一斉攻撃していることになるのだ。斎藤氏に何があったのか。先に書いた吉良氏への考察よりも、この点は重要だ。義元が想定した勢力均衡が突如瓦解し、大量の兵員を急速に投入されたことが、義元の死の要因だったと思われるからだ。

さて、積み上げた検証は大詰めに差し掛かった。斎藤義龍については岐阜県史が最もよくまとまった史料集になると思うのだが、編年構成ではないため時間がかかりそうだ。他の史料集も探りつつゴールを目指すとしよう。

今川義元の三河出馬について、政治的名理由を考察してみた。

まとめると、三河国衆を取りまとめるために義元自身と松平元康の出征が必要だったという点を基点として、以下の要素を含んでいる。

■嫡男を長期間もうけられないでいる氏真の後継能力を疑い、姪孫である松平信康を岡崎に据えて氏真と相対的な権限を与えようとした。

■武田晴信が織田信長と交渉を開始していた。これは東美濃の遠山氏と共に美濃の斎藤義龍に対抗するため。そのため、今川氏がこの戦線の主導権を握るために、織田氏を従属させる必要があった。

また、以下の要因も想定してよいかも知れない。

■義元・氏真が朝廷から任官されたのが5月8日であったため、この任官を三河国で受けたかった。

■伊勢遷宮の費用負担を、支配が徹底していない西三河・東尾張に及ぼすために軍事的バイアスを強めた。

これら西への偏重政策は、当時40代に突入した義元の余命予測に基づく可能性もある。今川家累代の没年齢を列記してみる。

範国 89歳(病死)
範氏 49歳(病死)
泰範 79歳(病死)
範政 69歳(病死)
範忠 53歳(病死)
義忠 40歳(戦死)
氏親 55歳(病死)
氏輝 23歳(不明)

家系図は当主として持っていたと思うが、最も意識したのは父の氏親だろう。満年齢で享年55歳だが、最晩年は病臥していた。曽祖父の範忠の没年齢を考えると、大体53歳頃が自らの想定寿命だと考えた可能性はある。

だとすると自分が元気なのもあと10年。ある程度の年齢になるとあっという間に過ぎる時間である。三河に独自政権を扶植するために急激な方針転換を図る必要に駆られたという仮説も成り立つと思う。

さて。政治状況の考察としては一旦切り上げて、地勢的な要因の考察に入る。鳴海城が落ちなかった謎、毎月19日に補給戦を行なっていた謎、刈谷城の謎などなど、細かく考えると際限がないので、考えをまとめつつラフデザインを検討したい。

今川氏真、武田義信が嫡男をもうけられなかったことから三国同盟が崩壊に向かったことを検討してきた。このことは徳川信康にも該当すると余談で取り上げたが、実は北条氏直も同じ問題を抱えていたようだ。

北条氏直は1583(天正11)年に21歳で徳川家康の次女良正院殿(督姫・おふう)を娶るが、2人の娘しか得られなかった。家督自体は成婚前の天正7年に譲られていたため氏真・義信・信康のような家督回避を受けることはなかったものの、徳川家の娘を正室にした以上はかなりの重責を感じていたものと思われる。

この世代では後北条の家督継承者は少なく、先代氏政の弟である氏照・氏邦に息子はおらず、三郎景虎は嫡男道満丸とともに既に戦死している。僅かに氏規が助五郎・勘十郎の男子をもうけていた。当主の氏直の弟、氏房・直重・直定に男子はない。

この状況を受けてか、氏規嫡男の助五郎は天正17年11月10日に氏直から「氏」の一字書出を受けて養子となったと『後北条氏家臣団人名辞典』は記述している。一字書出は養子縁組を意味しないので、家臣団辞典は後年に氏盛が氏直遺領を相続したことを意識して書いてしまったのかも知れない。何れにせよ、12歳の助五郎は氏盛と名乗って元服を遂げた。

この時、婚姻後6年の氏直は27歳になっており、氏政を始めとする周囲は氏盛を氏直娘と婚姻させて相続させることを検討していたのではないか。氏規は家康と親しく、良正院殿が産んだ娘と従兄弟婚させることに困難はない。

氏盛の母は玉縄の北条綱成の娘である高源院殿。綱成の正室は氏綱の娘であるから後北条の血筋としても問題ない。実は玉縄北条氏も氏勝に男子がなく、氏盛の1歳年長である繁広が兄氏勝の養子に入っていたという。

氏直ら兄弟がまだ若く可能性はあったにせよ、後北条氏は基本的に短命なため氏盛と繁広に期待は集中しただろう。天正18年に滅亡してしまうことから印象は薄いが、実はこのような背景があったことは今後心に留めておこうと思う。

史料漁りは完了した。本当はもっとほしいところだが、ないものはないので今仮説をまとめている。とはいえかなり複雑な構造になりそうだし、要点も多岐にわたるため、覚書を縷々記していこうと思う。

まず最初に、私のこの仮説では太田牛一や小瀬甫庵の『信長記』は一切考慮しない。1564(永禄7)年生まれの小瀬は同時代の人物とはいえない。また、1527(大永7)年生まれの太田は永禄3年に33歳ではあるが、鳴海原合戦については黙して語っていない(いわゆる『桶狭間』の記された「首巻」は自筆原稿が見つかっておらず作者は不詳)。太田が初期に祐筆をつとめた丹羽長秀の父親は水野和泉守被官だった可能性が高く、状況はよく把握していたと思うのだが……。

何れにせよ、当時の関係者が記した書簡などの一次史料で仮説を構築していく。これはこのサイトを始めた時からの方針だ。

では私は何を調べようとしているのか。長らく調査を重ねてきて自分でも模糊とした部分はあるため、改めて挙げてみよう。

主題は1560(永禄3)年5月19日に尾張国鳴海原にて戦死した今川義元。義元自身は戦国大名であって当主とはいえ戦闘に参加する可能性はあり、戦死すること自体は謎ではない。

一般的には、兵数の多い今川方がなぜ敗れたのかという議論を行なっているようだ。だが、義元の戦死を取り巻く局地的な兵数については史料がない。どんなに圧倒的な兵数を保有していても、的確に戦場に展開できなければ意味をなさない。少なくとも、総大将を喪失するという大敗北になったということから、今川方は兵数が劣っていたとみなすべきだろう。

「今川方は織田方より兵数が多い」という前提は、両家の勢力範囲から動員数を推測して戦場に当てはめているから成り立つ。しかし、近代の国民国家による徴兵制度のような動員が行なえたとは思えない。たしかに勢力範囲の広い大名は被官数も多いから動員可能数は大きいだろうが、あくまで可能性の範囲である。

シンプルに考えるならば「兵数が判らないなら、負けた方が少なかった」と考えた方が合理的となる。

総大将が戦死した今川義忠・武田元繁・宇都宮尚綱・陶晴賢・佐野宗綱といった例を見ても、強引な政策(外交・体裁)を重視し、戦況が不利になったのを立て直そうとして総大将が前線に出て戦死している。唯一の例外が、竜造寺隆信。島津に正面突破されて乱戦中に死んでいる(とはいえ沖田畷合戦前に行なった粛清によって求心力を失っていた点は大きく、やはり大局的に見て他者と同様に感じられる)。

これらの例を見ると、何れも我の強い専制的な大将に見える。しかし義元はそういうタイプではない。

こうしたことから最初に疑問に思ったのは、今川義元はなぜ尾張で死んだのか、という点だ。同時代の武田晴信・北条氏康・上杉輝虎たちと比べても、義元はほとんど出陣した形跡がない。前者の3名は明らかに陣中と思われる書状がいくつも見つかるが、義元については皆無である。今川家を見ても義忠・氏親・氏輝と割合親征した率が高いように見えるのだが、義元・氏真は出陣しなくなる(これも謎だが今は措く)。こうした傾向の義元が、紛争中の尾張東部で戦死したというのは解せない。上杉輝虎や武田勝頼であれば納得し易いのだが。

義元がわざわざ前線に出たのは、伊勢遷宮の経費負担の案件と、三河守任官が絡んでいるように考えている。前述した5名も外交・体裁を重視し、現場を軽視したため破綻したことを考えて、このことを詳しく検証したい。

ついで第2の疑問となったのが、義元と氏真の関係だ。息子氏真への家督継承は、弘治末年から永禄元年にかけて迷走している。ところが、義元戦死直後に氏真は大量の文書を発給して家督継承を既成事実としている。この直前まで、氏真の書状数は少なく、義元も数も減っている。このことを考えればよいか。そして、当主の継承か微妙なこの時期に尾張まで義元が出て行った理由は何か。ここは、甲相駿三国同盟の後継者問題が大きな要因だと考えている。さらに甲斐武田氏との関係でいうと、この時期武田氏は織田氏と急接近している。この原因として、美濃の斎藤氏が朝倉・織田・武田と断交して独自路線を選んだ経緯があるが、今川氏が武田氏との協調を考えるならば、尾張の織田氏と何らかの妥協点を見出す必要が出てきて、軍事的進出と譲歩によってある程度織田氏を屈服させるプランが考えられたのではないか。また、この作戦に同意できなかった氏真側は、尾張侵攻を冷ややかな目で見ていたように感じられる。だからこそ、義元戦死後に大量の文書を発給した、すなわち、義元の失敗を見越した、というか願っていた部分があるように思える。

最後の疑問は、なぜ鳴海城は陥落しないのか、という難題である。鳴海原合戦において、織田氏に対しての最前線は鳴海城である。だが、大高城は何度も後詰が言及されているし、沓掛城は合戦後に自落した(大高城も自落)。ところが鳴海城は後詰も自落もない。

地形的に見ても、北方の成海神社とはほとんど地続きで備えは甘く、城域も狭い。この鳴海城が義元敗死後も維持され、氏真の撤退命令を受けて整然と開城した。なぜ落ちないのか。感状がない点から、そもそも攻められてすらいないと思われる。付随して、毎月19日に大高後詰を行なった謎、刈谷城陥落の誤報がなぜ発生したかの謎、沓掛城で重要文書を失った被官たちの謎についても検討したい。

『謎とき 東北の関ヶ原』(光文社新書・2014年刊)にて、著者の渡邊大門氏が以下のように書いている。

大名の書状中においては、使者などを略称で表記するのは自然なことである。しかし、兼続が相手方の人物に対して、略称を用いるのは極めて不自然であろう。(同書120ページ)

 これは、『直江状』の中で直江兼続が「増右・大刑少出頭之由」と記した点を不自然だと指摘している流れで述べられている。渡邊氏が何を典拠としてこの判断を下したのかは明らかにされていないが、実はこういう表現は普通に使われている。

「北条氏規書状写」

 北条家の一門である北条氏規は、同盟している徳川家の家臣である朝比奈泰勝を指して「朝弥」と表記している。この宛先は同じく徳川家家臣の酒井忠次である。氏規の場合は、自身の最初の正室が泰勝の大叔父泰以の娘だという伝承もあって、微妙に身内表現なのかも知れない。ただ、もう1例がある。

「大石芳綱書状」

 差出人の大石芳綱は山内上杉氏の家臣。宛先の山吉豊守は越後長尾氏家臣で、書状が書かれた当時は上杉輝虎が両家を統合していたため、両者は同一大名の家臣といえる。この中では、遠山康光を「遠左」と3回呼んでいる。ちなみに、関係者が以下のように表記されている点も興味深い。

北条氏康 御本城様
北条氏政 氏政
北条綱成 左衛門尉大夫
北条氏邦 新太郎殿
北条三郎 三郎殿
松田憲秀 松田

山吉豊守 山孫
上杉輝虎 輝虎

武田晴信 信玄

 文書に直接当たった訳ではないが、宛名先であっても自家でも大名を実名で呼び捨てにする例は複数あり、殊更卑下している様子はない。この感覚は現代人と大きく異なるため、敬意を持っている相手でも略称を用いることに違和感を持たず、真摯に史料に向き合っていくべきではないかと思う。

『歴史街道』2014年9月号39ページにおいて、新発見されたという『斎藤利三宛長宗我部元親書状』の大意が掲載されていた。この文書は、本能寺の変直前に長宗我部元親が織田信長に従っていた根拠という触れ込みで報道されている。

この記事での解釈は歴史作家の桐野作人氏によるものだが、管見の限りでは他例が見当たらない独自の解釈をされていた。私自身はこの文書は改竄された写しであると想定しており、その視座から内容を検討してみる。

※現物については林原美術館にて概要と画像が紹介されており、テキストデータ化されたものはtonmanaangler氏のサイト『国家鮟鱇』の記事「長宗我部元親書状(斎藤利三宛)修正版」を参照した。

私が違和感を感じた部分について、原文の下に読み下し、そして桐野氏解釈を並べてみよう。

原文:追而令啓候、
読下:追って啓せしめそうろう
解釈:書状拝見しました。

「書状拝見」だとするならば原文は「貴札忝致拝見」もしくは「来翰披閲」となる筈なので、この解釈は成立し得ない。「追ってご連絡させていただきます」とするのが妥当だ(ただそれでも、先行する書状について言及していないのが不審だ)。

そもそも桐野氏はこれを本文文頭としているが、「追而」で始まる表現は見たことがない。内容も元親の心情が語られているだけの補足文であり、書状の文頭とは思えない(後半に条書を伴う場合、最初に、相互の通信状態の確認や、発信者の近況を語るものが多い)。いきなり箇条書きで始まる書状例も複数あるので、無理に本文としなくてよいから、これは追而書の一種であるか、後世挿入された文と見た方が自然だ。ちなみに、追而書でも「令啓」と続ける例は管見では存在しない。

原文:今度御請、兎角于今致延引候段、更非他事候、進物無了簡付而遅怠、
読下:このたびのお請け、とかく今に至り延引そうろう段、さらに他事にあらずしてそうろう、進物に了簡なくて遅怠、
解釈:今度、(信長の朱印状の趣旨を)お請けすることが延引したことは他意はありません。進物は考えが及ばず遅怠しました。

「他事にあらず」の内容が「進物に了簡なくて」を指す点は、両文が直接つながっていることから間違いない。延引と進物不備が別文になるのであれば、「加之」や「将又」を入れて区別すると思われるためだ。進物不備を形ばかりの理由にした白々しい外交文言であると私は考えた。

原文:此上にも 上意無御別儀段堅固候者、御礼者可申上候、
読下:この上にも上意ご別儀なき段堅固にそうらえば、お礼は申し上げそうろう
解釈:このうえは、(信長公の)上意に逆意はない(元親の)気持ちは固いので、お礼は申し上げます。

「別儀」が丁寧語になっていることから、別儀がないのは上意であって元親の気持ちではない。この「御礼」は割譲合意の挨拶を指すと思われ、前項の「御請」と同じ意味だろう。「織田信長の意思が変わらないのであれば合意の挨拶をするだろう」という文脈だと思われる。

余談ながら、武田攻めを指すと想定されている条項が唐突で曖昧な点はとても気になっている。

原文:東州奉属平均之砌、 御馬・貴所以御帰陣同心候
読下:東州が平均に属したてまつったの砌、お馬・貴所の帰陣をもって同心そうろう
解釈:東国(武田勝頼領)を平定なされた時節、信長公と貴方がご帰陣なされたので味方します。

「東州」を平定して「御帰陣」したのをもって「同心候」とあるが、であれば、「御成敗候ヘハとて無了簡候」(殺されようと了承しかねる)と、断固たる決意で大西・海部の保持を表明していた前項と齟齬が生じてしまう。実は、ここが書状の解釈を判りにくくしている。この条項を除外すると文意が鮮明になるため、ここは後世書き加えられた可能性が高いと考えている。前述『国家鮟鱇』での原文をベースにした解釈の復元案を挙げてみる。

○復元案(後世挿入と想定した部分は打ち消し線で表示)

[追而書]なお、頼辰へ残らず申し達したので内々の書状には及びませんが、心底の通り、粗々ではこのようになります。お計らいがないなどありませんように。

追ってお知らせします。私の身上のこと、いつも気にかけていただいて、いつまでもご配慮下さり、なかなかに全てを書き尽くせません。

一、この度の受諾、とかく今にいたるまで延引していることは、更に他事がある訳ではありません。進物で了簡もなく怠けていました。既に早くも時節・都合を延期していますから、この上は贈るには及ばないことでしょうか。但し、来る秋に重宝(調法)をもって申し上げれば、お目にかなうこともあるのだろうかと、その覚悟をしております。

一、一宮を始めとして、夷山城、畑山城、牛岐の内の仁宇、南方は残らず明け渡します。御朱印に応じたこのような次第をもって先ずご披露いただきたく、いかがでしょうか。これでもご披露はなり難いと頼辰も仰せになるので、いよいよ考えに残すところがなくなります。つまるところ、『時が来た』ということでしょうか。そして多年粉骨にぬきんでたのは、真意では毛頭ありませんのに、思いもかけぬご指示を受けたことは、了簡に及びません。

一、この上にも、上意は変わらないとの事が堅固でしたら、お礼申し上げましょう。どのような事態になろうとも、海部・大西の両城は保持しなければ叶いません。これは阿波・讃岐と競り合うためでは絶対ありません。ただ当国の門としてこの2城を保持しなければ叶わないのです。それでご成敗なさろうと了簡に及びません。

一、『東州』をご平定の際に、御馬があなたのところへ御帰陣なさるのをもって同心しました。

一、何事も何事も頼辰と話し合って下さい。ご分別が肝要です。万慶は後の連絡を期します。

後世挿入が事実であるとして、その動機は憶測するしかないが、「了簡に及ばぬ」と繰り返す、元親のやや挑発的な言辞を和らげ、長宗我部氏が根底では恭順していたと誘導したかったように見える。

などと色々書いたが、私は長宗我部元親の文書を殆ど見ていないため、合っているかは怪しい。もしかしたら元親はこのような表現をするかも知れない。2015年には今回発見された文書を含む研究成果が吉川弘文館から刊行されるとのことなので、詳しくはその内容を待ちたい。

※「追而令啓候」で始まる書状の本文について、その例を知らないと記したが、以下の例が見つかったので補記しておく。

追って申し候。京都の儀、先途竜蔵坊下国の砌か、しからざれば、態と脚力をもって申せしめべきのところ、林平右より具に注進の由に候。殊更先書に申すごとく、時に方々の注進を合わせ、此方より飛脚を差し登せ申すに、少しあい替わる様に候。諸侯の衆あい果てられ候様体、三好方へ出でられ候衆、変わるがわるに注し下し候条、承り合わせ申し入れべきと存じ候ところ、結句御使僧に預かり候。本意に背き存じ候。

[note]直江実綱宛の朝倉景連書状(読み下し)『戦国のコミュニケーション』(山田邦明・吉川弘文館)126ページ「添えられた追伸」[/note]

これは、足利義輝横死の状況を上杉輝虎に質問された朝倉景連が、使僧に渡した表向きの書状とは別に、同じ日付で発行したものだ。公には書けなかった情報や、親上杉派としての自身の活躍を記している。また、この書状を預かったのは景連側の人間だったようで、追伸とはいいながら、伝達経路は別立てである。

もしこの例が「斎藤利三宛の長宗我部元親書状」に援用されるならば、斎藤利三宛の表向き書状が同時に用意されていたのは確実といえるだろう。裏向き書状のみが石谷家に伝来したのは表向きしか渡さなかったためか。

それでもやはり私は気になってしまう。景連書状のように表・裏がセットで残らなかったのは何故か。そして、景連は追伸書状で「ただ、いまは(輝虎様へ)御披露なさらないでください。長い目でおとりなしいただければと思っています」(上記書・129ページ)と、実綱に輝虎への伝達方法を明記している。これが元親書状には見られないのはどういう訳か。

愛知県に購入を申し込んでいた『愛知県史資料編14』が手元に入った。7月上旬には段取りはついていたのだが、諸事慌しく大幅に遅れてしまった。

内容をざっと見たところ、『戦国遺文 今川氏編』にもなかった氏真感状や、緒川・刈谷に言及した義元書状などがあって参考になった。「これは」という史料は随時アップしていく予定。

主な目的だった「菩提心院日覚書状」は長文なので、信秀に言及した部分のみの抜粋を上げようと考えている。軽く読んだ限りでは、三河国の情報源は鵜殿氏のようだ。鵜殿氏が帰依していた蒲郡の長存寺は、この書状が伝来した越後国本成寺(法華宗陣門流)の末寺であるから、その関係だろう。

未だ図書館にも出回っていないものなので、確認したいことがあれば気軽にお尋ねを。