今川氏真、武田義信が嫡男をもうけられなかったことから三国同盟が崩壊に向かったことを検討してきた。このことは徳川信康にも該当すると余談で取り上げたが、実は北条氏直も同じ問題を抱えていたようだ。

北条氏直は1583(天正11)年に21歳で徳川家康の次女良正院殿(督姫・おふう)を娶るが、2人の娘しか得られなかった。家督自体は成婚前の天正7年に譲られていたため氏真・義信・信康のような家督回避を受けることはなかったものの、徳川家の娘を正室にした以上はかなりの重責を感じていたものと思われる。

この世代では後北条の家督継承者は少なく、先代氏政の弟である氏照・氏邦に息子はおらず、三郎景虎は嫡男道満丸とともに既に戦死している。僅かに氏規が助五郎・勘十郎の男子をもうけていた。当主の氏直の弟、氏房・直重・直定に男子はない。

この状況を受けてか、氏規嫡男の助五郎は天正17年11月10日に氏直から「氏」の一字書出を受けて養子となったと『後北条氏家臣団人名辞典』は記述している。一字書出は養子縁組を意味しないので、家臣団辞典は後年に氏盛が氏直遺領を相続したことを意識して書いてしまったのかも知れない。何れにせよ、12歳の助五郎は氏盛と名乗って元服を遂げた。

この時、婚姻後6年の氏直は27歳になっており、氏政を始めとする周囲は氏盛を氏直娘と婚姻させて相続させることを検討していたのではないか。氏規は家康と親しく、良正院殿が産んだ娘と従兄弟婚させることに困難はない。

氏盛の母は玉縄の北条綱成の娘である高源院殿。綱成の正室は氏綱の娘であるから後北条の血筋としても問題ない。実は玉縄北条氏も氏勝に男子がなく、氏盛の1歳年長である繁広が兄氏勝の養子に入っていたという。

氏直ら兄弟がまだ若く可能性はあったにせよ、後北条氏は基本的に短命なため氏盛と繁広に期待は集中しただろう。天正18年に滅亡してしまうことから印象は薄いが、実はこのような背景があったことは今後心に留めておこうと思う。

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