上杉輝虎の視点から関東出征を描いている。概ね合っていると思うのだが、後北条・今川を中心に調べている身からすると色々疑問がある。

●氏真の塩荷抑留について永禄11年と比定しているが、永禄11年12月18日に駿河方面斥候として大藤政信と清水康英が命じられており、その文脈から考えると政信が抑留したのは永禄12年6月だと考えるのが妥当だろう。

●輝虎が氏真直状を非礼とした点をさらりと書いているが、室町復古体制を目指す事と矛盾しないだろうか。また、永禄10年という比定のままだが、戦国遺文今川編第2巻の長谷川弘道氏論考で永禄12年以降と改められていた点には触れていない。

●足利義輝が諸大名の流動的なパワーバランスの上にしか成立し得ず、書状を出す度に大名が対応を試みていたという記述は納得できた。しかし、義輝横死後に輝虎が名乗りを「旱虎」に変えた意図を服喪と断定しているのは疑問。将軍の権勢を頼めなくなった自嘲とも考えられないだろうか。

●武田の駿河侵攻に至るまでの考察は薄い。関東政局に与えた影響は大きいのではないか。

●小田城下の人身売買について、極単に低い値付によって事実上の捕虜解放だった、としている点は強引に思う。20文でしか売れなかったから「春中」販売していたので、シンプルに考えれば身請元までごっそり拉致した挙句、飢饉で人買いの動きも純かったという事だろう。人身売買での利潤を求めないなら、城主小田氏治を助命したようにそのまま解放すればよい。市場に出されるというのは全財産没収・家族離散が伴うから、小田領の生産能力は落ちる。税収確保のために領民秩序は温存した方がよい。後北条・武田が自領内生産者確保のために他国から人馬をさらい、身請を求める親族には高値を吹っ掛けたという意図の方が判り易い。在地性からでは不可解に思える小田城下の出来事を元に、藤木氏は上杉輝虎の背後に広域の奴隷商人の在存を示唆したのではないか。

●関東侵攻で輝虎方は略奪を行なっていないとしているが、少し一方的であるように思う。放火・耕作地破壊はちょくちょく行なっていたように記憶している。曖昧な記憶なので、今度年表を追ってみたい。

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補記:2015年7月19日

 上杉輝虎の破壊・略奪行為については、『戦国合戦の舞台裏』(盛本昌広著・洋泉社)で紹介されていた(p131~141)。何れも1574(天正2)年のこと。3月28日/4月1日/5月/閏11月20日の書状で耕作地の破壊を味方に伝えている。

 また、『戦国時代年表後北条氏編』では、1563(永禄6)年4月吉日付けの史料(神奈川県史資料編3下7328)にて、相模国厚木郷が上杉輝虎の侵攻で「郷村が壊滅的な被害を受け」とある。この史料はその復興時の記録のため、被害を受けたのは永禄4年と推測される。1566(永禄9)年11月10日に輝虎は「北条勢が在陣しているので利根川を越えて北は高山(群・藤岡市)から南は武蔵深谷(埼・深谷市)まで放火し」とある。

 どちらの書籍でも後北条・武田も同様に破壊・略奪行為は行なっていることが示されている。これらのことから考えて、程度の差が多少あるにせよ、輝虎が破壊・略奪を忌避した証左がないことが判る。
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輝虎の管領就職を対三好軍事計画の一環としている点は興味深いので、今後の研究の進展を楽しみに待ちたい。

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