a桶狭間再考

検証a30:鳴海原の位置比定

以前のエントリで取り上げたように、今川義元が討ち死にした「鳴海原」は、相原郷ではないかと推定している。『角川地名辞典』によると、以下の記述がある。 あいはら;地名の古鳴海(鳴海村枝村)と沓掛山二村山(現豊明市)の中間に位 検証a30:鳴海原の位置比定

検証a28:安心軒と武衛

天文年間に三河国で散見される『安心』という人物について、その出自を考慮していた。到底判らないものと諦めていたが、ついに知見を得たのでここに記しておく。 ■安心軒の俗名  2次史料ではあるものの、そのものずばりの名前が出て 検証a28:安心軒と武衛

検証a27:松平蔵人佐の血脈

 西三河最大の国人で、安心軒とともに三河国宗主権を保持していたと思われる「松平蔵人佐」について、記載文書を抽出してみた。 A:1523(大永3)年~1526(大永6)年9月 松平一門・家臣奉加帳写 「弐千疋 松平蔵人佐  検証a27:松平蔵人佐の血脈

検証a24:岡崎の帰属

 主に今川氏から見た『岡崎』の帰属について列挙。天文後半から永禄初頭までをまとめたが、その動向は一定ではない。 1548(天文17)年3月11日 不明 織田方に攻囲・接収? 仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城 検証a24:岡崎の帰属

検証a23:奥三河の拠点位置関係

より大きな地図で 奥三河関係図 を表示 青ポイント 今川方 水色ポイント 武田方 緑ポイント 遠山・広瀬・鱸の各氏 黄色 帰属不明