検証a32:三河給人の扱い3 奥平定勝の場合
奥三河現地の情報を参考にさせていただいている『長篠落ち武者日記』で、菅沼定勝・定能・貞友の関係性を考究した記事が上げられていた(謎の文書 奥平貞勝と貞能親子の微妙な関係?)。筆者のうらにわさんは、1547(天文16)年の … 検証a32:三河給人の扱い3 奥平定勝の場合
奥三河現地の情報を参考にさせていただいている『長篠落ち武者日記』で、菅沼定勝・定能・貞友の関係性を考究した記事が上げられていた(謎の文書 奥平貞勝と貞能親子の微妙な関係?)。筆者のうらにわさんは、1547(天文16)年の … 検証a32:三河給人の扱い3 奥平定勝の場合
以下が基本図形となる。濃い紫が市街、薄い紫が大型構造物。緑は丘陵地を指す。鳴海原を相原郷と想定した場合、鳴海・相原で最高所となる大形山が義元本陣となるだろう。 永禄記に予想される街道を書き加えた。相原郷からまっすぐ北上し … 検証a31:鳴海原戦闘推移の検討
以前のエントリで取り上げたように、今川義元が討ち死にした「鳴海原」は、相原郷ではないかと推定している。『角川地名辞典』によると、以下の記述がある。 あいはら;地名の古鳴海(鳴海村枝村)と沓掛山二村山(現豊明市)の中間に位 … 検証a30:鳴海原の位置比定
国土変遷アーカイブにある写真には、終戦直後の鳴海城が写っている。大雑把にトレースすると以下のようになる。 北の成海神社から伸びてきた稜線が、扇川手前で崖を形成する。それが瑞泉寺から鳴海城にかけてのラインとな … 検証a29:1961年写真からの鳴海城復元
天文年間に三河国で散見される『安心』という人物について、その出自を考慮していた。到底判らないものと諦めていたが、ついに知見を得たのでここに記しておく。 ■安心軒の俗名 2次史料ではあるものの、そのものずばりの名前が出て … 検証a28:安心軒と武衛
西三河最大の国人で、安心軒とともに三河国宗主権を保持していたと思われる「松平蔵人佐」について、記載文書を抽出してみた。 A:1523(大永3)年~1526(大永6)年9月 松平一門・家臣奉加帳写 「弐千疋 松平蔵人佐 … 検証a27:松平蔵人佐の血脈
三河国の大給城に拠点を置いた大給松平氏が、今川氏にどのように扱われていたかを史料から考察する。まず、永正期に伊勢宗瑞指揮下、信濃国小笠原氏と共同で行なった遠江・三河遠征に関係するものを挙げる。 A:1516(永正13) … 検証a26:三河給人の扱い2 松平親乗の場合
服属した三河国人を、今川氏がどのように扱ったを提示してみようと思う。牧野保成は、1546(天文15)年には今川氏に所属している。 1546(天文15)年10月16日 牧野保成条目写 所領の不入を今川氏奉行に認定してもら … 検証a25:三河給人の扱い1 牧野保成の場合
主に今川氏から見た『岡崎』の帰属について列挙。天文後半から永禄初頭までをまとめたが、その動向は一定ではない。 1548(天文17)年3月11日 不明 織田方に攻囲・接収? 仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城 … 検証a24:岡崎の帰属
より大きな地図で 奥三河関係図 を表示 青ポイント 今川方 水色ポイント 武田方 緑ポイント 遠山・広瀬・鱸の各氏 黄色 帰属不明