奥三河現地の情報を参考にさせていただいている『長篠落ち武者日記』で、菅沼定勝・定能・貞友の関係性を考究した記事が上げられていた(謎の文書 奥平貞勝と貞能親子の微妙な関係?)。筆者のうらにわさんは、1547(天文16)年の文書が定勝ではなくその息子と弟に宛てられた点に着目され、奥平父子に相克があったのではないかと論を広げておられた。

私も下記のように今川方となった三河給人について考えた経緯がある。

検証a25:三河給人の扱い1 牧野保成の場合
検証a26:三河給人の扱い2 松平親乗の場合

牧野氏では約束した本知行を与えずはぐらかし、大給松平氏では当主を訴訟で駿府に呼び出し、その間に軍事指揮権を狙ったり人質奪還を心配したりと、割合素直に腹黒さを出している今川重臣たちだが、奥平定勝に関しては今川義元が前面に出てくる。この辺りの展開を見て、義元自身はどのように国衆に接したのかを検討してみたい。 まず、奥平氏が明確に登場するのは義元の三河進出が決定的になった段階からだ。

1547(天文16)年

閏07月23日 松平家広、牢人中の懇意を感謝して、松平清善に知行を与える

今度牢人仕候て其方へ憑入参候処、種々御懇候得共、殊過分之御取かへなされ、進退をつゝけ本意仕候

08月25日 今川義元、奥平定能・同貞友に、三河国山中の新知行を安堵する

当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、彼地之事、永不可有相違也

まず閏07月23日を取り上げたのは、後に説明するが形原の地が奥平氏に関わってくるためだ。この段階で形原松平の家広は牢人から復帰しているものの、どうやら本知行の形原は取り戻せなかったようだ。 ついで、義元は奥平定能・貞友に三河国山中郷を与えると約束する。東西の戦況がどうあっても保障するという言い回しが意味ありげだが、今回は掘り下げない。ここで注目すべきは、後に当主として登場する定勝(監物丞)宛てではなく、「作手 千千代」「藤河 久兵衛尉」に向かって知行の約束手形を切っている点である。 現時点で考えうるのは……

1 定勝が健康上重篤な状態にあった
2 定勝が敵方にいた
3 定勝が隠居、もしくは逐電、隠遁していた
4 定勝は今川家中に拘留されていた

という4つである。1と2は、次に示すように半年足らずの間に定勝が活躍を始めることから考えづらい。むしろ、この文書の宛名2名の方が怪しい動きをする。3についてもすんなり総領して義元に認められていることから考えられない。 そこで、松平親乗の例を思い出してみた。彼は駿府で訴訟というか審議を受けていた。それが終わるまで城に帰れず、その留守は今川の家臣団が管理していた。息子は吉田に人質に出されている状態で、家臣団は「途中で親乗が人質を奪回するのではないか」と疑っていた。定勝が本格的に今川方となるに当たって、駿府へ出仕の挨拶に赴き、そのまま忠誠を調べられ試されていたと考えると自然な流れになる。それでも奥平氏の軍事力を利用したい義元は、定勝の不在を守る息子と弟に「山中新知行のことは間違いはないから」と約束したのだろう。

1548(天文17)年

01月26日 今川義元、奥平定勝の功績を賞す

去年息千々代・同名親類等依忠節、新地山中七郷充行分[但此内百五十貫文、竹尾平左衛門割分除之、]本知行并遠江国高部給分、弟日近久兵衛尉知行分、同去年配当形之厚分等之事 右、依今度久兵衛尉謀反現形、最前ニ馳来于吉田、子細申分、則実子千々代為人質出置、抽忠節上、抛先非如前々所充行之也

定勝に代わって前年に活躍したのが息子、千千代とその親類となっている。親類は「藤河久兵衛尉」だろう。彼らは、当主定勝の不在にも関わらず今川方として忠節を尽くしたようだ。この結果、懸案だった山中7郷は給付されるが、その中の竹尾氏領有の150貫文は除外される。続いて記載されているのが本知行、これは作手領を指すだろう。そして遠江国高部。ここは天竜川より東にあるので遠隔地に与えられた知行だろう。追加して、弟である「日近久兵衛尉」の知行分とある。前回の判物では「藤河」となっていたが正しくは「日近」であったようで修正されている。この知行は日近郷と考えてよいと思う。更に、久兵衛尉には前年に配当された「形之厚分」=形原分が挙げられている。 まとめて考えると、前年の褒賞として、定勝には一部150貫文を除いた山中7郷と遠江高部が、弟の貞友には形原が与えられたことになる。これらに本知行を足した分について、再安堵しているのがこの判物だ。「今後久兵衛尉謀反」が明らかになったことを受けて、定勝が吉田に駆けつけ事情を説明し、子の千千代を人質として差し出したので「先非」を帳消しにしてやろうという義元は書いている。 だが、この「謀反」は少しおかしいように見える。日近久兵衛尉が反乱したと言いながら、彼の処遇については触れていないし、日近と形原はむしろ安堵している。この通りなら、久兵衛尉はそのまま知行を維持することになる。反乱が奥平家限定のものだったとしても、そのままというのは考えづらい。定勝を呼びつけ人質を取るための言いがかりだったと考えた方が整合性が高いように見える。

1550(天文19)年?

12月02日 今川義元、奥平監物の出陣を労い部隊増派を約束する

就高橋筋之儀、早速至于岡崎着陣之由候

年代はかなり推測が入っているものの、岡崎・大給・高橋で雑説が流れた際に、定勝は派遣されている。完全に今川傘下に入りつつあったのだろう。

1553(天文22)年

03月21日 今川義元、奥平定勝の知行分を安堵し、諸権益を認める

神領・寺領之事、定勝於納得之上者、可及判形事

09月04日 今川義元、三河国菅沼伊賀の寝返りを賞し、知行を安堵する

年来同名三郎左衛門尉、同織部丞・同新左衛門尉令同意逆心之儀、先年奥平八郎兵衛尉為訴人申出之上、今度林左京進令相談、為帰忠以証文言上、甚以忠節之至也、因茲同名隅松一跡之儀、所々令改易也

この年3月の判物で、義元は定勝の当主権限を増強させようとしている。中でも寺社の所領でも定勝が納得するなら裁定してよいと書いているのは、かなり大きな既得権益を保障していることになる。 一方で、隣接する菅沼氏では5年前の奥平家と同じ状況が展開している。一族のうち三郎左衛門尉ら3名が菅沼伊賀守によって逆心を訴えられている。その際に、告発の原告となったのが奥平八郎兵衛尉である。定勝・定能の仮名は九八郎だから、後に出てくる分家名倉奥平家ではないかと推測している。自分の分家が菅沼家の内紛に介入していることを、定勝がどう考えていたかは不明である。ただ、今川家の影響が次第に増してきていることを実感したのは確実だろう。

1554(天文23)年

10月15日 今川義元、奥平定勝に、三河国山中七郷の支配につき指示を与える

縦雖為河成、定勝江不相断、以各別之名職之内、恣非可引取儀也

この年再び、義元は定勝の権限を保障している。河川の氾濫でできたりなくなったりするような土地であっても、定勝が管轄・裁定するよう指示している。同様の文書は遠江天野氏にも出されていることから、今川家が国衆の当主権限拡充を志向していたか、国衆の当主が権限不足を訴えていたか、もしくはその両方があったかだと考えられる。

1555(弘治元)年

10月23日 今川義元、荒川氏に、吉良義安造反に対応しての人質提出を求める

荒河殿幡豆・糟塚・形原堅固候

これは久兵衛尉が持っていた形原郷に関連する情報。形原は吉良一族の荒川氏の所有になっている。

1556(弘治2)年

10月21日 今川義元、奥平定勝らの所領を安堵する

今度九八郎就構逆心、可加成敗之処、各親類九八郎於永高野江追上、監物儀谷可引入之由、達而之懇望之条、赦免之上、本地并諸親類本知不可有相違、若給方へ雖出置、無異儀可還附事

この年、その昔千千代と呼ばれていた九八郎(定能)が逆心を構えたとして糾弾されている。殺されるところを高野山へ無期限で追い上げたとし、監物(定勝)は谷に引き入れたと奥平の各親類(名倉家、菅沼家か?)が報告し、赦免を強く懇願した。もし「給方」に出されていたのだとしても、問題なく還付せよとあるので、既に知行を接収する官僚が動いていた可能性がある。

1557(弘治3)年

06月26日 今川義元、奥平定勝の同彦九郎成敗の功を賞し、三河国日近郷を与える

同名彦九郎自去年春逆心事、沙汰之限也、雖然定勝事、無二存忠節、彦九郎遂成敗段神妙也、為其賞日近郷之事、永充行之了、彼者本知行分野山・河原・寺社領并買得地等、一円為不入所々領掌候也、棟別之事、永令免許之、百姓以下他之被官仁罷出事、令停止之、可為定勝計也、久兵衛尉事、内々可加成敗之処、令欠落之条、不及是非、縦至于後年対此方抽忠節、日近郷之事、成競望雖企訴訟、一切不可許容、定勝本知行之事、是又永不可有相違、親類奥平与七郎及両度致逆心上者、彼諸職之事、為作手領割分之内条、可為定勝計者也、仍如件、

09月05日 今川義元、菅沼左衛門次郎の布里撤退の軍功により知行を宛行なう

去年菅沼十郎兵衛尉・同八右衛門尉帰参之刻、林左京進・菅沼三右衛門布里江打入之処、以敵猛勢相勤之旨、夜中令告知人数無相違引取之段、忠節也、因茲菅沼孫大夫給之内

この年は奥平氏と菅沼氏で道が大きく異なっている。 奥平彦九郎は、前年10月に発生した定能逆心騒動に連座したのか、春(1~3月)に逆心している。義元は「沙汰之限」=呆れたことだとして、定勝の彦九郎成敗を評価している。その褒美として日近郷を与えるとしているから、彦九郎は久兵衛尉の後継者だったと思われる。久兵衛尉は隠居していたのだろう。その久兵衛尉のことは、「内々可加成敗之処、令欠落之条」とある。「内々」という係りをどこで受けるかが難しいが、成敗を加えることよりも逃がしたことのほうが「内々」に適していると思われるので、今川方の意向としては久兵衛尉も殺せとあったものを、定勝が内々で逃がしたと考えるのが自然だと思う。この件について義元は逃げてしまったのは仕方のないこととしながらも、もし久兵衛尉が手柄を立てても日近を定勝から奪って返すようなことはない、としている。この表現は他の様々な国衆に対して使っているものだ。 一方の菅沼氏は、一族が分裂して混乱した状態になっていった。今川方になると言ってきた布里城を接収に行った林左京進と菅沼三右衛門は、菅沼左衛門次郎からの情報で敵が控えていることを察知して撤収している。左衛門次郎は菅沼孫大夫の跡地を給されていることから、一族の所領も入り乱れていたのではないだろうか。

1558(永禄元)年

06月02日 今川義元、奥平松千代の舟渡橋合戦での活躍を褒める

去月十七日、三州名倉於舟渡橋、岩村人数出張候処

閏06月08日 今川家奉行、奥平監物が舟渡橋合戦で活躍したことを顕彰する

先度於舟渡橋、岩小屋江後詰之人数多之討捕、御粉骨之至、無比類御感状被遣候、源二郎殿、両度抽御馳走、御感悦異于他被思召候、然間、御腰物正恒、被進候、御面目之至候、将又九八郎殿儀、御親類中人質於牛久保ニ被置、以身血重諸余不可有疎略候段、各御申候条、無御存知分ニ三戸大宮寺辺ニ、為山林可有御堪忍ニ候、是又御心安存候、委細御同名兵庫助殿へ申条

07月04日 今川義元、菅沼大膳亮を撃退した伊東貞守を褒める

去正月、河合源三郎令逆心敵引入処、一類等奥山能登守かたへ相渡、無二令味方段、神妙也、又至于三月菅沼大膳亮お源三郎相催、屋敷構江攻入之刻、尽粉骨、甚以忠節之至也、因茲同名源三跡職知行一円

この年は、検証a22:北方戦線(奥三河)を中心とした時系列で述べたように、遠山・広瀬氏を軸にした反今川・武田の軍が動き始める。ここでは、奥平定勝が名倉家と連携して敵を撃退したこと、菅沼大膳・河合源三郎が反今川方、伊東貞守・奥山能登守が今川方に属したことを確認する。また、以前逆心を疑われた定能は、人質を牛久保に提出したことを今川家臣たちから褒められている。

1559(永禄2)年

10月23日 今川義元、奥平監物が大高城補給に成功したことを賞す

去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、自身相返敵追籠

今川義元、菅沼久助が大高城補給に成功したことを賞す

去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻、為先勢遣之処、為自身無比類相働、殊同心・被官被疵、神妙之至甚以感悦也、弥可抽忠功之状、仍如件、

この段階で、奥平家は定勝、菅沼家は久助が軍事指揮権を掌握し、2家共同で尾張大高城支援作戦を展開している。

1560(永禄3)年

06月16日 今川氏真、簗瀬九郎左衛門尉の戦功を賞す

今度当城堅固爾相踏、殊於両度遂一戦、為初奥平久兵衛尉・鱸九平次、随分者数多討取段

義元が尾張で敗死した直後、後継者の氏真は簗瀬九郎左衛門尉の城砦守備を賞している。その中で、奥平久兵衛尉・鱸九平次を討ち取ったことが記されている。但し、こういった記録があっても当人が参戦していなかったり戦死していなかったりということは多い。ただ少なくとも、氏真は貞友が今川方には存在しておらず、反今川方に存在しても不思議ではないと考えていたのは確かだ。 時系列で見てきたが、奥平定勝は身内を何度も今川方から疑われている。それが冤罪なのか事実なのかは今後の調査が必要だが、恐らく冤罪の方だろうと思う。牧野・大給松平・菅沼の各氏状況を見る限り、義元政権は三河国衆を信用しておらず、隙を見て力を削ぐことに注力している。また、定勝がこっそり弟を逃がしたのは、兄弟の関係が良好だったことを窺わせる。 最後に、年未詳の文書を紹介しよう。どこに当てはまるか不明なので、もしかしたらここで挙げた事件以外のゴタゴタかも知れない。この短い文面に、義元の意図が端的に現われているように思えてならない。

7月17日 今川義元、奥平定勝の知行を還付し某の処刑を命ず

於調儀成就之上者、本知行無相違可令還附候、然者彼一人生害之段、堅可申付者也

以下が基本図形となる。濃い紫が市街、薄い紫が大型構造物。緑は丘陵地を指す。鳴海原を相原郷と想定した場合、鳴海・相原で最高所となる大形山が義元本陣となるだろう。

鳴海の米軍空撮写真を元に図案化

鳴海の米軍空撮写真を元に図案化

永禄記に予想される街道を書き加えた。相原郷からまっすぐ北上して古鳴海に向かう道、鳴海の砦を経由して古鳴海に至る道はどちらも鎌倉街道のバリエーション。その一方で、有松から鳴海を経て北上する東海道も発達して来ていると想定される。でなければ、鳴海が合戦の争点となることはないからだ。砦には円龍寺・浄泉寺が存在。瑞泉寺の北には駿河衆の駐屯地があったという。

鎌倉街道と東海道、新海池排水路の想定を付加

鎌倉街道と東海道、新海池排水路の想定を付加

1560(永禄3)年以後の想定図。円龍寺・浄泉寺は兵火のため砦から現在地に移転している。また、激戦地と思われる場所に光泉坊が編まれる。

光泉坊、円龍寺、浄泉寺の付加

光泉坊、円龍寺、浄泉寺の付加

下図は近世中期からのもの。光泉坊が相原郷に移って浄蓮寺となり、変わって同地に相原町が出来る。このことは、鳴海・相原で何らかの取り引きがあったことを窺わせる。

相原町、浄蓮寺の付加

相原町、浄蓮寺の付加

以前のエントリで取り上げたように、今川義元が討ち死にした「鳴海原」は、相原郷ではないかと推定している。『角川地名辞典』によると、以下の記述がある。

あいはら;地名の古鳴海(鳴海村枝村)と沓掛山二村山(現豊明市)の中間に位置するという意味の「鳴海アイノ原」に由来するという(徇行記)

このことから、氏真がいう「鳴海原」は「鳴海(アイノ)原」だった可能性が考えられる。相原郷は沓掛からは鎌倉街道でつながっており、今川方がこのルートをとっていた可能性は高い。明確に判るのはここまで。

情報を求めてネットを巡ると、今川家臣だったという本多慶念の光泉坊がクローズアップされる(こちらも前回のエントリで触れた通り)。慶念が編んだ坊は六田1丁目となっており、鳴海城に近過ぎる。ここまで近いのに鳴海城の岡部元信が巻き込まれなかったのは不自然である。それよりは、光泉坊が天正年間に移転した先の浄蓮寺が存在する相原郷の方が本陣としての条件を備えているように思う。浄蓮寺の東に位置する諏訪神社は永禄年間には確実に存在し、鎌倉街道が通る大形山につながっている。高所である上に、岩崎を経て足助に抜ける街道と鎌倉街道の分岐点だったともいう。

沓掛を出た義元は二村山を経由し、相原郷・大形山に着く。鳴海城に入らなかったのは、岩崎方面からの合流を待つためという理由もありうる。そうなると、当時岩崎にいたと思われる福島彦次郎の叛乱(氏真判物写)がつながってくるだろう。

一方、光泉坊のあった場所は前線位置で、鳴海城(瑞泉寺)と本陣の中間地点にある扇川渡渉点を守備したのではないか。当日大高方面で戦闘が行なわれたことは確実であり、織田方が南から出現する可能性はあり得る。慶念が戦死者を弔ったのだとすると、激戦が展開されたのではないか。朝比奈親徳が鉄砲で負傷した地点としても充分考えられる。

今川方本陣が大形山まで進んでしまった場合、退却するとなると往路である二村山に向かうこととなろう。鎌倉街道とはいえ、泥田・川・上り坂が続く道は組織的行軍もままならず、大高・沓掛・大脇などを目指して丘陵地帯では散らばった。このため、当座は松井宗信の生死も判らず、戦場が比定しづらいほどの広範囲に伝承が残ったのかも知れない。

ちなみに、相原は「粟飯原」「藍の原」とも呼ばれたという。藍の産地だったとすると、木綿の先進生産地帯だった矢作川流域とも関係が深かっただろう。




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国土変遷アーカイブにある写真には、終戦直後の鳴海城が写っている。大雑把にトレースすると以下のようになる。

 

1961年空撮写真を元に鳴海城付近を図示

1961年空撮写真を元に鳴海城付近を図示

北の成海神社から伸びてきた稜線が、扇川手前で崖を形成する。それが瑞泉寺から鳴海城にかけてのラインとなる。その北東にある『砦』は字名。通説に善照寺砦と呼ばれるもので、東に向かって崖を形成する。

鳴海城・砦・瑞泉寺の3拠点は、三河から東海道を上る敵に対して効果を発揮したものと思われる。黒末川を渡った三河勢はすぐに瑞泉寺からの攻撃に晒される。辛うじて鳴海宿に侵入しても、北からの高地に晒されながら進まねばならない。鳴海城の手前で北に折れるが、道は城の眼前に取り込まれており、容易には進めない。

一方で砦は東に向かって構えを持っており、相原郷から来る鎌倉街道方面へ睨みを利かしている。部隊を2手に分けても対応可能ということだ。

東西南に強い鳴海だが、北からの攻撃には弱い。傾斜も緩く川もないため、土塁・空堀などで防御線を構築しなければならないだろう。

つまり、この城を今川方が確保するのは難しかっただろうと思われる一方、織田方には有利に働いたものと推測される。しかし、史料にある鳴海城は今川方の岡部元信が5月19日以降も堅守している。

この矛盾を次回から検討していきたいと思う。

天文年間に三河国で散見される『安心』という人物について、その出自を考慮していた。到底判らないものと諦めていたが、ついに知見を得たのでここに記しておく。

■安心軒の俗名

 2次史料ではあるものの、そのものずばりの名前が出てくる文献がある。

1517(永正14)年6月 今川家譜
今川氏親、遠江国で斯波義達方を撃破する
「大将ノ武衛殿色々降参ノ望有ケレハ命計リ助被申、城ヲ追出普済寺ト申寺ニ入出家アリ、法名安心ト名付主従五人尾張ノ地へ送リ申」

 ここでは、斯波義達が今川氏親に出家させられた後の名前が『安心』であると書かれている。永正14年以降、義達は尾張で活躍することはない。義淳と名前を変えたか、義統に家督を譲ったと考えられているようだが、三河に留まって独自政権の構築を模索したという可能性もあるのではないか。それが『安心』かも知れない。その論拠を挙げてみる。

■安心の立場

 1次史料上の『安心』を、事実上の三河国主として読み直してみる。

1)1544(天文13)年と比定される書状で登場

9月25日 水野十郎左衛門宛て 長井久兵衛書状

「尾州当国執相ニ付而、通路依不合期、無其義候、御理瓦礫軒・安心迄申入候、参着候哉」

9月23日 安心軒・瓦礫軒宛て 斎藤利政判物
「松次三被仰談御家中被固尤候」

 何れも厚礼であり、安心が斯波義達であれば、家格としては相応しい。水野氏・松平氏との中継を担っているのは、衣領(高橋荘)にいたからかも知れない。『安心』が水野氏・松平氏を緩やかに統合している状況があると思われる。

2)1546(天文15)年9月28日の、牧野氏書状に登場

牧野康成条目写
「先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候」

 この書状では、松平蔵人佐と同時に登場している。牧野氏がこの書状で出した条件というのは、田原・吉田・長沢をどのように扱うかという三河国の利権配分である。この書状のお墨付きとして、松平蔵人佐と安心軒が登場するということは、三河国利権は、今川義元を頂点として、松平蔵人佐・安心軒の下に牧野氏を始めとする三河国人、という階層を形作っていると推測可能である。但し、今川・織田両氏服属という選択も行なえたのではないかと考えられる。いうなれば、規模が極大化した半手の村である。
 のちの北条氏康書状で、織田信秀が「今川氏に相談せず三河の国に攻め込んだ」と書かれているのは、元々は安心軒(後年は松平蔵人佐も)が統治する三河国の集団があり、これに干渉したのが織田氏・今川氏だったと考えると筋目が成り立つ。そして、織田方と今川方が和睦する際に諸権益を分配して確定事項を作っていたのだと考えられる。織田方の権益を保障するために信秀が出陣するのだとしても、和睦要件として今川氏への相談が前提にあったのだろう。

3)年次不明3月28日の鵜殿氏書状の宛先として登場

年次不明 鵜殿長持書状写
鵜殿長持、『安心』に織田信秀の裏工作を譴責する

 鵜殿長持から「信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条」と指摘されていることから、信秀密書は安心軒の書状に紛れていたものと考えられる。このため、長持は安心軒を譴責したのだろう。この文書は刈谷赦免に関係すると考えられるので、天文18年頃ではないか(参照:検証A14:織備懇望の内容)。

4)織田達成の偏諱として登場し、そして退場

1554(天文23)年12月 織田達成判物

 「達」は「斯波義達」からの偏諱と考えられる。同じ花押を持つ人物は1557(弘治3)年11月には「信成」と名乗りを変えている。ということは、1554年から57年までの3年間に、この人物が『達』の偏諱を変える要因があったと思われる。直線的に考えるならば、斯波義達(安心軒)の死が想定される。

 西三河最大の国人で、安心軒とともに三河国宗主権を保持していたと思われる「松平蔵人佐」について、記載文書を抽出してみた。

A:1523(大永3)年~1526(大永6)年9月
松平一門・家臣奉加帳写
「弐千疋 松平蔵人佐 信忠」

 松平一族の中で最大の人物が「蔵人佐」を名乗っていることが判る。この時点での名乗りは「信忠」で、後に織田氏・水野氏が名乗る通字に近しい。

B:1542(天文11)年6月
松平信孝寄進状
「松平蔵人佐 信孝(花押)」

 名乗りが「信孝」と変わっている。Aから少なくとも16年経過しており、代替わりした可能性もある。通字は変わらず「信~」となっている。同時期に大給松平氏の当主だったと見られる松平和泉守の諱は「親乗」であるが、これは今川氏親からの偏諱と思われることから、松平一族内でも今川、織田の両派があったようだ。

C:1546(天文15)年9月28日
牧野康成条目写
「此五ヶ条之内一ヶ条を除四ヶ条之事者、先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候、猶只今承候間、我等加印申候者也、仍如件」

 Bの4年後。三河国人牧野康成は、今川氏と知行獲得交渉の只中にあった。その際に、康成の上位者として「松平蔵人佐」が登場する。今川氏は三河国人個々との交渉も行ないつつ、三河国全体の代表者として松平蔵人佐・安心軒を認めていた。織田氏に近しい立場を維持しつつ、今川氏と交渉に臨んだのだろう。この人物が信孝かどうかは定かではない。

D:1548(天文17)年3月以前
今川氏真判物写(文書自体は1560(永禄3)年12月2日)
「松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、」

 Cの2年後になると、織田方と今川方が交戦状態に陥る。天文17年の小豆坂合戦では、松平蔵人佐は織田方について戦っていることが判る。前項Cと同じく信孝かは不明。但し、Eの元康である可能性は、元康の年齢(5歳)から限りなく低いと考えられる。

E:1559(永禄2)年11月28日
松平元康判物
「蔵人佐 元康(花押)」

 Dの11年後、松平蔵人佐の名乗りは、元康に移る。「信~」の通字は消えて、義元からの偏諱である「元~」となり、今川氏側近としての色彩が強くなっている。

 上記から、1524(大永4)年~1548(天文17)年の24年間を通じて松平蔵人佐は「信」の通字を経て尾張国織田氏と関わりを持ち、1559(永禄2)年に至ってようやく今川氏の偏諱を名乗っていたことが判った。

 三河国の大給城に拠点を置いた大給松平氏が、今川氏にどのように扱われていたかを史料から考察する。まず、永正期に伊勢宗瑞指揮下、信濃国小笠原氏と共同で行なった遠江・三河遠征に関係するものを挙げる。

A:1516(永正13)年8月5日 今川氏親書状写
奥平貞昌に、上野城への通路確保として細川に城を用意することを提案

 細川は後に大給松平氏が関与する。遠江国から奥三河を経由して矢作川流域確保を考えると、細川の拠点確保は重要だったと思われる。

B:1552(天文21)年6月3日 今川義元感状
松平甚太郎が5月26日、大給城北沢の水源地で敵を討ち取ったことを賞す

C:1556(弘治2)年2月29日 今川義元感状
今川義元、天野小四郎が1555(弘治元)年9月14日に大給・山中筋で平五屋敷攻撃で活躍したことを賞す

 大給城が今川方かの判別は難しいものの、今川方が係争に関与している。また、松平甚太郎が今川方であったことから松平一族の関与も判明する。1556(弘治2)年以前の少なくとも6年間は、大給城は政情が不安定だったようだ。天野氏敗退時に、松井宗信が救援した記述(氏真書状)があるため、激しい実戦もあったようだ。

D:1557(弘治3)年?7月22日 由比光綱・朝比奈親徳連署状
朝比奈親徳と由比光綱、良知善に駿府の状況を知らせる。親乗が吉田の人質である息子を奪還するのではないかと警告する

E:1557(弘治3)年?8月9日 松平親乗書状
松平和泉守、田嶋新左衛門尉に情報を与えて指示を下す。吉田の竹千代への心遣いに感謝し、訴訟の進展を伝える。

 1557(弘治3)年の7月から8月にかけて、大給城主として松平親乗が登場する。彼は吉田に息子を人質として預けて、裁判のため駿府に滞在する。留守中の城内は、良知善左衛門指揮下の田嶋新左衛門が仕切っている。建前上で新左衛門は親乗に伺いを立てているものの、実際は占領に近かったのではないか。というのは、別書状で由比光綱・朝比奈親徳は親乗離反を疑っており、監視の目は細かく行き届いていた。

 以上より、大給松平親乗は自身・子息・城をとられた状態で、留守も今川氏家臣に委ねなければならない状況にあった。

 但し、「和泉方も軈而可被罷上候」(親乗もすぐにそちらに向かわれるでしょう)という文言もあり、親乗が大給城にいれば戦闘力が上がるという面は今川氏も完全に否定できなかったようである。大給城は依然として安定しておらず、本音では否定したい親乗の影響力に期待するという矛盾した状況にあった。

 服属した三河国人を、今川氏がどのように扱ったを提示してみようと思う。牧野保成は、1546(天文15)年には今川氏に所属している。

1546(天文15)年10月16日 牧野保成条目写

所領の不入を今川氏奉行に認定してもらう

 その後、少なくとも1550(天文19)年までの間に、東三河で大規模な反今川決起が始まったようで、保成は今川方と条件交渉を行なっている。

年未詳 11月25日 牧野保成条目写

今橋跡職は苗字の地、伊奈は本知行であると今川氏に伝える

 牧野保成の本領は伊奈であること、今橋・田原・長沢を今川氏が攻略した後は自分に知行させてほしいと要望を出している。また、松平蔵人佐・安心が在国の際に義元から判形を貰っている点に言及していることから、保成は三河国内において松平蔵人佐・安心の下位者であることが判明する。

 1550(天文19)年、今川氏は攻勢に出る。この中で保成は中心的な役割を果たし、なおかつ占有した長沢城を今川氏に一時的に明け渡す。今川氏被官が揃って感謝し、返還を確約していることから、今川氏が長沢城を求めたのだろう。

8月29日(比定) 太原崇孚書状写

兵粮のこと、他部隊の展開について太原崇孚より指示

9月16日 朝比奈泰能書状写

朝比奈泰能、牧野保成が長沢城を明け渡すことを感謝する

9月19日 太原崇孚・飯尾乗連連署書状写

飯尾乗連・太原崇孚、臨戦態勢が解けたら長沢は牧野保成に返還されると通知

 ところがこの年の12月。「一時的」だったはずの長沢領明け渡しが今川氏によって反故にされる。慌てた保成は、返還を確約していた今川氏被官に抗議。書状として残っているのは三浦氏員・太原崇孚・葛山氏元だけだが、朝比奈泰能や飯尾乗連にも問い合わせはいったことと思われる。

12月14日 三浦氏員書状写

三浦氏員、牧野保成に、長沢両人が保成の知行を宛行われた件を上訴すると連絡

12月15日 太原崇孚書状写

太原崇孚、牧野保成に、長沢両人が保成の知行を宛行なわれた件は不法であると連絡

12月15日 葛山氏元書状写

葛山氏元、長沢両人が牧野保成の知行を宛行なわれた件が解決すると予想

 「今川義元に上訴しよう」と約束する氏員、「不法な占拠である」と憤ってみせる崇孚、「必ず解決するだろう」と楽観視する氏元と、3者の反応はそれぞれだが、その後長沢領が保成に返還された痕跡はない。
 このことから、「軍事的理由から一時的に」という名目で領地を召し上げ、義元側近に与えてしまう。そして泣き寝入りさせる、という手法が新領地で行なわれていたと判断できる。

 主に今川氏から見た『岡崎』の帰属について列挙。天文後半から永禄初頭までをまとめたが、その動向は一定ではない。

1548(天文17)年3月11日 不明 織田方に攻囲・接収?

仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候

北条氏康は織田信秀に「岡崎の城がその国から押さえられたので」と書き送る。拠点として失効しているようで、織田方に攻囲か接収された可能性がある。

1550(天文19)年11月19日 今川方 松平広忠が反尾張陣営として在城

先年尾州岡崎取合之刻、対広忠令無沙汰之条、彼神田召放、依為忠節、自去年出置之云々、然者勤相当之神役、可支配之、若先禰宜雖企訴訟、一切不可許容之者也、仍如件、

今川義元は三河国人長田氏に「尾張と岡崎が取合の際、広忠に納税しなかったのであの神田を改易した忠節」とある。

1550(天文19)年?12月2日 不明 高橋方面のことで、奥平監物が着陣

就高橋筋之儀、早速至于岡崎着陣之由候

今川義元は奥平監物に「高橋(衣領)方面のこと、早速岡崎に着陣されたと聞きました」と書状を書く。

1550(天文19)年?12月15日 不明 牧野田三が岡崎方面で奔走

就高橋雑説、自最前岡崎筋御馳走、御陣労察存候、

太原崇孚は牧野田三に「高橋の雑説について、最近岡崎方面で奔走されており、陣地の苦労をお察ししています」と追伸する。

1553(天文22)年3~4月 今川方 紛争地帯と隣接

大村家盛道中記、岡崎は今川方として記述

1554(天文23)年10月15日 今川方 納税先として指定

先規岡崎江令納所本成

三河山中郷の本年貢の納付先として岡崎が登場。

1554(天文23)年11月2日 今川方 糟屋備前守から戸田・匂坂氏に岡崎城番が変更

就今度岡崎在城、長能・宗光両人江弐百五十貫文■令扶助之也、然者糟屋備前守同前諸事可走廻

匂坂長能と戸田宗光が岡崎城番に命じられる。その先任である糟屋備前守と同じく奔走せよと言われる。

1556(弘治2)年 反今川方 足立氏が上野城に退去

去辰年上野属味方刻、勝正同前ニ従岡崎上野城へ相退砌も、既尽粉骨之上、彼城赦免之儀相調之間

1556(弘治2)年に上野城が今川方になった際、足立勝正・甚尉兄弟は岡崎から上野城へ退却して尽力、岡崎城を赦免するよう調整した。岩瀬氏の例にあるように「逆心を打ち明けられる→慌てて近隣の城に退く→後から顕彰される」という流れがこの時代の今川氏でよく見られるパターン。つまり上野が敵から寝返ったのではなく、岡崎の逆心に対して上野は今川方に留まることを選んだと考えると自然である。

1556(弘治2)年2月3日 反今川方? 近隣の上野城で今川方の軍資金が消費される

今度上野城所用

上野城で軍資金が必要な事態が発生する。

1558(弘治4)年2月26日 今川方 城番変更

相止番手如年来之以自力可在城于岡崎之旨

寺部攻囲中の匂坂長能に岡崎城番を免除する旨告知。

1558(永禄元)年4月24日 今川方 広瀬氏を撃退する

去廿四日寺部へ相動之刻、廣瀬人数為寺部合力馳合之処、岡崎并上野人数及一戦砌

寺部城を巡り、岡崎と上野の軍が広瀬氏と交戦する。

1558(永禄元)年閏6月20日 今川方? 雑説が流れる

今度岡崎雑説出来候処、無別儀無事候間

朝比奈泰朝、大樹寺に「今度の岡崎に不穏な噂が流れたところ、別段何事もなく済んだので……」と告げる。


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青ポイント
今川方
水色ポイント
武田方
緑ポイント
遠山・広瀬・鱸の各氏
黄色
帰属不明