以前のエントリで取り上げたように、今川義元が討ち死にした「鳴海原」は、相原郷ではないかと推定している。『角川地名辞典』によると、以下の記述がある。
あいはら;地名の古鳴海(鳴海村枝村)と沓掛山二村山(現豊明市)の中間に位置するという意味の「鳴海アイノ原」に由来するという(徇行記)
このことから、氏真がいう「鳴海原」は「鳴海(アイノ)原」だった可能性が考えられる。相原郷は沓掛からは鎌倉街道でつながっており、今川方がこのルートをとっていた可能性は高い。明確に判るのはここまで。
情報を求めてネットを巡ると、今川家臣だったという本多慶念の光泉坊がクローズアップされる(こちらも前回のエントリで触れた通り)。慶念が編んだ坊は六田1丁目となっており、鳴海城に近過ぎる。ここまで近いのに鳴海城の岡部元信が巻き込まれなかったのは不自然である。それよりは、光泉坊が天正年間に移転した先の浄蓮寺が存在する相原郷の方が本陣としての条件を備えているように思う。浄蓮寺の東に位置する諏訪神社は永禄年間には確実に存在し、鎌倉街道が通る大形山につながっている。高所である上に、岩崎を経て足助に抜ける街道と鎌倉街道の分岐点だったともいう。
沓掛を出た義元は二村山を経由し、相原郷・大形山に着く。鳴海城に入らなかったのは、岩崎方面からの合流を待つためという理由もありうる。そうなると、当時岩崎にいたと思われる福島彦次郎の叛乱(氏真判物写)がつながってくるだろう。
一方、光泉坊のあった場所は前線位置で、鳴海城(瑞泉寺)と本陣の中間地点にある扇川渡渉点を守備したのではないか。当日大高方面で戦闘が行なわれたことは確実であり、織田方が南から出現する可能性はあり得る。慶念が戦死者を弔ったのだとすると、激戦が展開されたのではないか。朝比奈親徳が鉄砲で負傷した地点としても充分考えられる。
今川方本陣が大形山まで進んでしまった場合、退却するとなると往路である二村山に向かうこととなろう。鎌倉街道とはいえ、泥田・川・上り坂が続く道は組織的行軍もままならず、大高・沓掛・大脇などを目指して丘陵地帯では散らばった。このため、当座は松井宗信の生死も判らず、戦場が比定しづらいほどの広範囲に伝承が残ったのかも知れない。
ちなみに、相原は「粟飯原」「藍の原」とも呼ばれたという。藍の産地だったとすると、木綿の先進生産地帯だった矢作川流域とも関係が深かっただろう。
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