大徳寺の黄梅院
永禄5年に大徳寺98世の春林宗俶が黄梅庵を営む。この庵が後に「黄梅院」となる。この住持の法名「春林宗俶」と、氏政室の戒名「春林宗芳」が似過ぎている気がしてならない。「宗俶」も「宗芳」も同じ臨済宗大徳寺派なので似るのも当然 …
永禄5年に大徳寺98世の春林宗俶が黄梅庵を営む。この庵が後に「黄梅院」となる。この住持の法名「春林宗俶」と、氏政室の戒名「春林宗芳」が似過ぎている気がしてならない。「宗俶」も「宗芳」も同じ臨済宗大徳寺派なので似るのも当然 …
黄梅院殿を巡る謎には、嫁ぎ先の北条家も関係しているかも知れない。 彼女は永禄12(1569)年6月17日に死去する。死因も場所も不明だ。甲府に出戻ってから病死したかも知れないが、小田原で自刃した可能性もある。後者だった場 …
黄梅院は甲斐府中東郊にある大泉寺の塔頭である。場所は竜地郷にあったが、現在はごく小さな石塔があるだけだ。扁額には「延命山黄梅院」とあるという。 延命山という言葉には父としての晴信の想いが込められているように感じられる。結 …
閨閥を調べていて、氏政室が謎に思えて来た。死没の経緯が不明だし、戒名が2つある。 黄梅院殿春林宗芳大禅定門 黄梅院殿智栄鳳瑞尼 上が後北条氏に伝わるもので、下は実家の武田氏の伝であるという。晴信正室の子で氏政正室でもあっ …
氏康の母とされる養珠院殿は北条宗哲の書状に登場する。永禄9年と比定されている、嫁入りする娘に送ったものに「座頭と親しくするものではない。養珠院様の頃はそんな事はありえなかった」と書いていた。私は、この記述に引っかかりを覚 …
氏綱継室の近衛氏について考えてみた。『北条早雲とそのー族』で、彼女の弟の年齢から、嫁した際に30歳をとうに越していたとして、多分に形式上の婚姻だったと指適している。前回も触れたが、氏綱が晴氏の外戚となるために家格向上目的 …
氏康の母は養珠院殿でほぼ確定と見てよいだろう。同母の兄弟としては、山木大方が最有力だと思う。今川貞世の系譜である堀越六郎と結婚しているし、役帳で養珠院寺領となっている伊豆国山木を領している。 古河公方の足利晴氏に嫁した芳 …
年の瀬も押し迫り、また狂躁の時節が到来した。これより如月の中頃まで生業が喧しくなる。記事も史料アップも暫時滞るだろう。だからという訳ではないが、少しくは思いつくままの書付を散らしてみようと考えた。文献の裏付けもなく脈絡も …
年来無足ニ而令奉公之間、新田領石原郷之内貮拾貫文被下候、弥厳密ニ可走廻者也、仍如件、 天正十五年[丁亥]八月二日[虎朱印]海保新左衛門 奉之 岡本越前守殿 →群馬県史 「北条家朱印状写」(安得虎子) 何年も無足で奉公し …
猪能所へ注進状披見候、助太郎相挊付而、去三日沼田東谷押替候、取出以不慮之行、打散悉放火、人馬貮百余討捕、首打捨五十余之内、鼻験八、其外分捕等ゝ紙面見得候、誠心地好面ゝ挊之所無比類次第候、則小田原へ注進状令進上候、弥境目無 …