黄梅院殿を巡る謎には、嫁ぎ先の北条家も関係しているかも知れない。
彼女は永禄12(1569)年6月17日に死去する。死因も場所も不明だ。甲府に出戻ってから病死したかも知れないが、小田原で自刃した可能性もある。後者だった場合、嫁ぎ先の対応に問題があったのだと推測できる。「自刃したので遺骨を引き取れ」とばかりに、骨壺と位牌(そして取ってつけたような戒名)が小田原から送られて来たとしたら……。
実際、長女死去のその6日後、晴信は駿河に陣を進め、僅か10日間で後北条方の富士氏を降伏させる。
同盟破棄の代償として離縁され実家に戻されるのは仕方ない。留まるにしても立場が悪くなるのも致し方ない。それは晴信も三条の方も判っていた事だろう。だが、自害するまで追い詰めるとは思っていなかった。
続いて8月24日、まるで追い立てられるように、晴信は相模攻めに出馬する。今度は苦戦するが、10月1日に小田原を攻めて氏政居館を焼く。撤退中の10月8日にも三増合戦で北条と戦う。甲斐に戻った後も作戦を継続。12月6日に蒲原を落城させ、籠城した主要将官を戦死させる。
この苛烈な死闘が長女の葬い合戦だとすれば、翌年建立の菩提寺を小田原から隠すような立地にしたのも納得できる。
上記の方が、晴信が長女の扱いを非道にしたという仮説よりは真実味がある。しかし、15年連れ添い氏直・源五郎・氏房・直重を成したとされる夫婦に何があったのだろうか。
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