朱印状

北条氏康、内藤代野口喜兵衛等に役所の普請をさせる

人足四十人指越候、役所きへ一向ぬるゝゝ馬もかけよせ、各来申候、度ゝ雖被仰出無沙汰ニ致候、為其一揆ニ普請道具を召寄、可為致由被仰付処、畢竟奉行人無沙汰故候、瓦つゝき堀切もわつか二間内之由申候、既役所儀をか様ニ致無沙汰候、曲 北条氏康、内藤代野口喜兵衛等に役所の普請をさせる

今川義元、以前に信濃国衆が侵攻した際の、朝比奈氏功績を賞す

[印文「義元」I型] 遠江国万石之内六郎左衛門屋敷、先年信州衆相動時、彼屋敷足懸之間、従前々屋敷之内棟別免許云々、然者五間分停止諸役畢、自然之時者、相当之奉公可致之旨、可被申付者也、仍如件、 天文十三[甲辰] 二月十九日 今川義元、以前に信濃国衆が侵攻した際の、朝比奈氏功績を賞す

山木大方、水口某に、滝山からの韮山城人足供出について指示する

にら山御城ふしんの人足、滝山へあたり候哉、諸人そんしのことく、彼地ニハちりさくにて、百姓の一人もなく候、此まへゝゝもさやうのしさい御申につゐて、滝山より人足いてす候まゝ、なをゝゝ■■ひも、こなたにて御ことわり御申候まゝ、 山木大方、水口某に、滝山からの韮山城人足供出について指示する

葛山氏元、駿河国神山宿伝馬役を巡る紛争を調停する

神山宿伝馬之儀付而、去未年以来、散在之者与伝馬屋敷相拘之者、依有申事今度遂裁許上、先年苅屋・笠寺出陣之時、如相定彼役屋敷拘来七間之者半分、散在之者半分充、打合可勤之、府中・小田原其外近辺所用之儀茂、如年来可相勤、於向後有 葛山氏元、駿河国神山宿伝馬役を巡る紛争を調停する

今川義元、村山浅間社の大内按察使房に、伊豆へ通る山伏を駿河・遠江山伏が監視するよう命ず

(印文「義元」) 今度伊豆江透山伏被預置之条、駿・遠両国山伏申付、無怠慢番等之事、逐次第可勤之、若於無沙汰之輩者、可加下知者也、仍如件、 天文十一 壬寅 九月四日 大内 安察使房 →静岡県史 資料編7「今川義元朱印状」( 今川義元、村山浅間社の大内按察使房に、伊豆へ通る山伏を駿河・遠江山伏が監視するよう命ず

今川義元、遠江国棚草郷の紅林次郎左衛門・同右京亮を、年貢未進と虚言の咎により、郷中追放に処す

(印文「義元」) 遠州棚草紅林次郎左衛門・同名右京亮、数年過分令未進之間、雖遂催促、不許容之間、以公方人令催促之処、一向未進無之由企訴訟之条、遂裁断之上、令致年来之勘定処、両人前七拾貫余之未進明鏡也、然上者両人構虚言企訴 今川義元、遠江国棚草郷の紅林次郎左衛門・同右京亮を、年貢未進と虚言の咎により、郷中追放に処す