『戦国史研究 第60号』の『今川氏真の「宗誾」署名初見史料』(長谷川幸一)において、気になる記述があったので考察してみる。
- 今川氏真書状写は1575(天正3)年に比定できる。取次役の秋葉寺に伝わっていた。つまり、本来の宛先である上杉輝虎に渡ることはなかった。
- 1575(天正3)年6月13日付け織田信長書状(上杉輝虎宛)で「徳川家康・今川氏真は駿河に侵攻したが兵糧不足で撤兵した。来る秋には重ねて出撃する」と書かれている。
- 天正3年8月24日~1577(天正5)年3月まで、遠江諏訪原城(途中で牧野城と改称)には今川氏真が駐屯していた。
織田信長は1575(天正3)年に徳川・上杉氏と連携して武田氏を攻める予定だったらしいが、実行されないまま織田方と上杉方は翌年断交する。
諏訪原城を牧野城に改称したのは、稲葉山城を岐阜城とした信長の中国趣味と合っている。岐山・牧野(ぼくや)の故事は史記の殷周革命に登場する。岐山は姫昌(周の文王)がその麓を拠点とした所で、牧野は姫発(周の武王)と子辛(殷の帝辛・紂王)が決戦を行なった戦場。岐阜と牧野の位置関係は中国と似ていることから考えると、殷の首都である朝歌に相当するのは、駿府・甲府・小田原の東国首都圏かも知れない。諏訪原を牧野としたのは織田信長である可能性は高いと考えられる。
そうなると、岐山の信長から牧野を預かった氏真は周旦に目されていたのかも知れない。それほど重要な人物が、対武田戦略最大の盟友上杉氏に送った書状が途中でストップしていたのは何故か。
天正3年の段階で、家康と氏真の関係がギクシャクしていたのかも知れない。天正5年の氏真左遷の経て、1579(天正7)年に徳川信康粛清事件が発生する。信康は母の清池院殿と共に今川系人脈に属し、なおかつ信長長女を夫人に持って信長から期待される存在である点も氏真に近い。信康・清池院殿が武田に通じたり、氏真が無能だったため城主を解任されたというよりは、駿河攻略で頭角を現わした旧今川派閥が連携することを恐れた家康派閥が粛清に踏み切った……という可能性もないだろうか。
そう考えると、現在では注視されることの少ない『徳川家中の今川旧閥』の存在を改めて洗い出す必要がありそうだ。
信康に関しては「三河物語」や「当代記」のように早くとも死んでから数十年経ってからの記録しか残っていないのですが、「岡崎市誌」では信康が岡崎城主になってからの城下の統治などに関する文書の多くが信康ではなく家康の名で出されているのが確認されている。
何らかの理由で信康がやるべき事を家康がやっていた(あるいは家康が信康にやらせなかった)事によって何らかの軋轢が生じたのも信康が自刃する原因になったと思うのですが。
コメントありがとうございます。ご指摘のとおり、権力の継承は難しいですよね。義元→氏真の継承すら不可解な点が多々ありますので、この辺は複雑なのでしょうね。
「家康」の名前でしか決裁しなかったのが何故かは、今後の研究に期待したいと思います。
個人的には信康は今川義元が推薦した家康の養子(ただ縁戚ではあり、恐らく資料を総合して想像すると家康の甥?)だったんじゃないかと思いますね、酒井忠次と家康の関係と同じです。
今川義元が対織田家に注力していて、その為に氏真に遠江・駿河をポンと渡してしまうぐらい三河支配を固めることに入れ込んでた晩年だったことは間違いないと思います。ただその過程で家康が今川家中で外様にもかかわらず権限が大きくなりすぎていくのに不満を言い出し家康イジメを始めた今川家臣たちに余計なことを言わせないために、築山殿を嫁がせ、かつなかなか男子が生まれないので思い切って養子を引っ張ってきてこれを家康と築山殿の実子と称して、家中の反対派を黙らせたという経緯、という独自説を持っています。それなりに優等生だった信康ですし、普段は実力主義の家康が気に入らない人物とは思いがたいです。秀忠が産まれていきなり粛清に急激に傾いていますから、やはり実子ではなかったと考えるのが一番最適ではないかと思います。氏真は信長が1577年に解任してしまっていますし、肝心の旧臣への調略すら勝頼にブロックされる始末、もはやあまり関係ないような気がしますが…しかしともかく、新資料の登場は待たれますね
コメントありがとうございます。
1579(天正7)年の三男誕生直後に信康が切腹に追い込まれているのはご指摘の通りですが、「次男が5歳になって成長の目途が立つと共に三男も産まれた」という考え方の方がより複合的な条件を加味できているかと思います。なおかつ、信康に嫡男ができなかった故の廃嫡と考えるならば、史料根拠のない「実は養子」という要件を入れなくても理解は可能かと思います。この点いかがでしょうか。
但し、お書きいただいた中で「なかなか男子が生まれないので思い切って養子を引っ張ってきてこれを家康と築山殿の実子と称し」たのが信康だというのは理解が及ばない点です。私の認識だと、家康と清池院殿は結婚2年目で長男、翌年に年子で長女をもうけております。不妊で養子をもらうにしても間隔が短いかと。
また、1577(天正5)年に氏真が信長に解任されたという事柄は、不勉強なことに把握しておりませんでした。典拠などを教えていただけますと大変助かります(あくまで感覚的なものですが、私には、信長よりは家康が牧野城主解任を主導したように感じられました……)。
不妊ではなくて、いわゆる桶狭間合戦直前、尾張統一間近の織田信長の三河調略が本格化しており、(今川視点では)事態が急を要するため、「今川血筋の者がいずれは岡崎を治める」という既成事実を早く作って、一丸となって織田家にすばやく対抗できるよう家中を納得させるために、信康を引っ張ってきた(?)ということです。要するに当時の情勢が逼迫していたため、時間がなかった説です。なかなか男子が生まれない=義元はちょっと待ってみたが、生まれたのは亀姫だった、ということです。
コメントありがとうございます。
ちょっと論点を整理しましょう。信康が家康と血縁関係にない方が合理的解釈が可能なのは、秀康の成長と秀忠の誕生を期に切腹へ追い込まれたという1点しか根拠がないように思います。しかし実子であってもこの程度の事象は例が多数あるため、血縁関係の有無にはつながらないのではないでしょうか。
それと、いただいたご指摘で腑に落ちなかったのですが、「今川血筋の者がいずれは岡崎を治める」ためには、信康が家康(西三河有力国衆)・清池院殿(義元の姪)との実子である方がすっきり明快になりませんか。嫡男に恵まれていなかったとしても、家康はまだ17歳ですから無理に養子を迎える必要もありませんし。
あくまでも私の拙い見識での疑問なので、新たな論点・典拠などありましたらお教え下さい。
・秀康の成長と秀忠の誕生を期に切腹へ追い込まれたという1点しか根拠がないように思います→その通りです
それと、いただいたご指摘で腑に落ちなかったのですが、「今川血筋の者がいずれは岡崎を治める」ためには、信康が家康(西三河有力国衆)・清池院殿(義元の姪)との実子である方がすっきり明快になりませんか。
→その通りです
嫡男に恵まれていなかったとしても、家康はまだ17歳ですから無理に養子を迎える必要もありませんし
→家康本人は無理に養子を迎える必要はもちろん全然ありません。(私の説で)必要があったのは「今川義元」の方です。義元本人は織田家に早く対抗したいのに、家康が余所者なのに今川家中で重きをなすことに不満が大きくなっていて、それが有名な家康イジメに繋がっていたのを、両者納得しやすい形で早く収束させたかった為、実子と捏造して年齢の合う親戚を引っ張ってくるのが手っ取り早いと「今川義元が」考えたのではないかと想像しました。
コメントありがとうございます。
とても大胆な仮説ですね。私は同時代史料から仮説を構成しますから「家康が余所者なのに今川家中で重きをなす」という点と「有名な家康イジメ」は除外します。どちらも史料が見当たらないので、恐らく後世の記述からの敷衍かと思います(もし同時代史料で該当するものがあるようでしたらぜひお教え下さい)。
そこで考えてみましたが、1次史料からだけ見た状況確認でも御説の妥当性は危ういようです。信康が非実子であるなら、ほぼ同様の廃嫡が行なわれた武田義信とどう異なるのか、もしくは義信も非実子なのかを検討する必要があるのではないでしょうか。また、家康の養子に出せる程の血縁男子がいるなら、より状況が切実だった氏真の養子にするのではないかという考え方にも楔を打ち込まねばならないでしょう。
残る可能性と先のコメントにもあった「家康の従兄弟」という示唆を鑑みると、吉良義安の血筋が該当して来そうです。家康は牛久保で叛旗を翻す前に東条攻めをしていますから、既に吉良家に嫁していた清池院殿を奪って正室に据えたという仮説も面白いかも知れません。西郡方の例もありますし。ただその場合、義元は介在しなくなりますが。
なぜ東条攻めを先行させたかは個人的にも気になっているので、また気を改めて考察してみようと思います。