本書(洋泉社新書y・盛本昌広著)は、戦国時代の合戦は具体的にどのように行なわれたか、を判りやすく解説した内容である。出陣の準備から行軍、食料や武器の調達方法、陣中生活の決まりから退陣方法までを網羅している。たとえばどこかの戦国大名がステレオタイプに「よし、出陣じゃー!」などと言って軍配を振り回したとしても、そのまま馬に跨って戦地に赴ける訳もない。もしそんなことをやったら、よくて強制隠居、最悪家を乗っ取られて殺されるだろう。

では本当のところは「出陣じゃー!」の後にどういう作業があったのか。それを一つずつ積み上げて説明してくれている。その手の細かいことは実は不明なことが多く、考察は自然と重箱の隅をつつくような地味な作業となる。著者は『家忠日記』と『三河物語』をベースとしつつ、1次史料も併用して実態に迫る。ちなみに、出陣が決まったら法螺貝や鐘を鳴らしたそうだ。音を聞いた面々が「お呼びですか?」と使者を出す。そこで急な出陣やその取りやめ、打ち合わせ開催などを伝える。場合によって(多分音が聞こえない範囲の通知)は伝達係が出陣スケジュールと目的地を伝えて回ったらしい。

第3章『兵粮・軍需物資の補給・確保』が最も興味深い。麦の生長に合わせて出陣した可能性に言及しており、個人的に調べている鳴海原合戦もそのようなスケジューリングで考えてみようと思った。

このように(編注:織田信長の)、本願寺攻撃は天正三・四・五年すべて四月から五月にかけて行なわれている。これは明らかに麦の収穫期を狙ったものであり、麦苗薙捨を行なって兵粮の補給を絶つことが目的であった。(130ページ)

鳴海原合戦の5月19日では、麦の薙ぎ捨てどころか田植えが終わっている。農作物を収穫前に破壊する作戦はよく行なわれるものの、基本的には収穫直前を狙うことが多い。これは心理効果を狙ったものだ。麦はなく、稲も植えたばかりという5月19日は、略奪・破壊の時期として最悪の日程だと言ってよい。こんな時に侵攻した今川義元は何をしたかったのか。謎が深まった。

もう1点、行軍の目安として挙げられているのが川の水量と渡渉地。川が渡れないとそれ以上進めないが、渡る人数が多いと大変な訳だ。東日本でいうと利根川が最も有名。台風が終わった後、雪解け水が現われるまでの冬が最も行軍に適している。旧暦5月19日は雑節『入梅』に近く、梅雨入り期となる。河川と低地が入り混じる鳴海原の地形では、戦闘に似合わない時期である。更に謎が深まった。

ちなみに、法螺貝で伝達係を集める手法は、川崎市中原区で大正時代まで遺されていたという。

別紙之書面披見候、仍沼田之儀在城之所、淵底存之前候、従此方も疾ニ雖可申届候、去夏以来在府大普請請取、其上上方之儀付而、無際限御用ニ取乱、依無手透、是非不申届候、其地之於仕置者、其方在城之儀候間、心易候、肝要之御城之儀ニ候条、此御世上ニ弥堅固之備、昼夜不可有由断候、然而太刀一腰并〓(我+鳥)目百疋到来珎重候、一儀自是可申届候、恐々謹言、

正月十七日

氏照(花押)

猪俣能登守殿

→北条氏照と八王子城「北条氏照書状」(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)

1590(天正18)年に比定。

別紙の書面を拝見しました。沼田のことは在城のところ、心底は判りきったことです。こちらよりも以前から指示しようとしていましたが、去る夏以来小田原に詰めて大普請を請け負っています。その上、上方のことについて際限なく取り乱しており、手が空かずに、是非が指示できません。そちらの処断はあなたが在城しているのですから、安心しています。重要な城であることですから、この世情ではますます堅固に守備して、昼夜にわたり油断しないで下さい。ということで太刀1腰と現金100疋が到着して喜ばしいことです。一通りこちらから指示します。

ミネルヴァ書房の日本人物評伝シリーズの1冊。武田氏研究で著名な笹本正治が担当している。本書は前書きで書かれているように、真摯な学術書というよりは著者の勝頼への思い入れ要素が強い。戦国武田氏というシステムの終焉に立ち会ったがゆえに、勝頼が愚者のレッテルを貼られたのは事実だと私も思う。ただ、徳川信康・羽柴秀次らに比べると歪曲された伝承は少なく、かえって祖父信虎のほうが多くその手の伝承を持つように思う。そんなに擁護しなくてもいいのではないかと。

長篠合戦の奮闘や御館の乱での判断妥当性で、勝頼は健闘したと強調する余り、贔屓の引き倒しというか、余計な弁護によってかえって論点が拡散している感じがした。また、勝頼は武辺だけで教養がないという偏見を打破したいという思いも随所に見られ、少々辟易した。勝頼に決戦指向があるのは多くの書状から明らかであり、一通りの教養を持った慎重な人格である勝頼が、なぜ長篠合戦を経てなお決戦を求めたのかを掘り下げてほしかった。もっとも、父の晴信にもこういった矛盾が多々あり、今川・後北条では余り見られないことから、当主の2重人格は武田氏独特の現象ではないか、と思う。

義信廃嫡には、勝頼の最初の結婚が大きく影響しているという学説が近年話題になっている。織田との同盟を推進するプロジェクトの中心人物が勝頼であり、この路線で後継者の地位が危うくなると警戒した義信がクーデターを計画したというものだ。ここの考察に期待したものの、あいにくと触れられていなかった。勝頼の人生で最も大きな分岐路だっただけに、詳細な記述がほしかった。

勝頼期を重商主義で括ったのは卓見だと思う。以下は私見だが、長篠合戦によって晴信次代の人材がいなくなるとその傾向は強まる。一般には長篠合戦で軍事力が低下・侵略主義がとれなくなったために内政重視しか選べず課税が深化したと論じられている。しかし、中央集権と増税に反対できる武将が全滅することで、勝頼の政策が進展したという半面もあるだろう。これまで後北条に大きく遅れをとっていた軍役規定、検地、訴訟権の掌握も、勝頼派が全権を掌握することで進んでいった。

ちなみに、有名な勝頼夫人願文が後世の創作だとする柴辻俊六氏の見解が掲出されていた。勝頼の最期にまつわる伝承は、劇的な滅亡だっただけに粉飾が多い。その一方で確実な同時代史料が少ないため、新史料の発掘があればと願う。

奥野氏が寄せてくれたコメントにより『関ヶ原前夜』(光成準治著・NHKブックス)で紹介されている文書で上杉景勝が「長尾殿」と呼ばれていたことが判った。紹介された文書は上杉氏を敵視した大名のものではない。このことから、長尾は景勝が自称したものだと考えられる。

そもそも景勝が所属したのは上田長尾氏である。その上には越後守護代である府中長尾氏が来るため、長尾一族とはいえ、ほぼ国人に近い身分だ。名乗れる筈の上杉氏は、越後守護の上杉氏の上に位置する山内家を指すため、わざわざ家格を3ランクほど落とした自称をしていたこととなる。

その理由を考える上で参考になるのが、上越市が公開した『春日山城跡保存管理計画書』内にある、以下の伝承だ(出典不明)。

慶長3(1598)年、上杉景勝は羽柴秀吉の命により会津へと国替となった。その際、景勝はあろうことか謙信の遺骸を置いたまま会津に行ったといわれる。替わって春日山城主となった堀秀治は、景勝に謙信の遺骸を会津に移すように依頼し、夏には会津に移したことが知られている。

また、『関ヶ原前夜』では、堀氏が上杉氏への讒言を行なった理由として、以下の理由を挙げている。

  1. その年の年貢を全て会津に持っていってしまったが、その際に現金化できるものは売るよう指示したこと
  2. 持ち去った年貢を堀氏に貸し付け、更に取り立ても行なったこと
  3. 侍と称して耕作者を多く会津に連れて行ったこと

堀氏側から見ると、結構厳しい話である。越後に入ってみたら、農民と税収は持ち去られている。城内だか寺だか不明だが、奇妙な甕があった。聞いてみると謙信の遺骸が封印されているという。当然、持ち去られた農民・税収の取り返し交渉を開始すると同時に、「甕を引き取ってほしい」と要請しただろう(「夏には会津に」というのは、異臭に怯えた堀氏にとっては切実だったに違いない)。

実は、景勝による『謙信信仰』が始まるのは米沢移封後である。それまでは、実はどう扱っていたかは知られていない。私は、家督継承後から会津時代までの景勝は「上杉」も「謙信」も嫌っていたのではないかと推測している。

上へ上へと出世意欲は旺盛だが、「自分は妻帯しない」という変なポリシーから養子を多数とっていた謙信。当然ながら継承を巡っての争いとなるし、統治機構も未整備で国人連合から脱しきれておらず、当主の権限も弱い。関東管領を名乗りながら、関東を統治できた訳でもない。

この未熟な政権を建て直し、羽柴政権の力を借りて当主専制のシステムに組み替えたのは景勝である。彼からすると、謙信が推進した府中長尾家の上杉化は、メリットどころかデメリットしかなかったという認識だろう。得意の絶頂にあった会津移封時、矛を交えた武田も後北条も織田も既になく、自分ひとりが羽柴氏の公認大名として生き残り120万石を得たという思いが強かったのではないか。

ところが、強引過ぎた移封によって堀氏から謀叛の告発を受け、最終的には羽柴政権から攻撃されることとなる。同時に勃発した関ヶ原合戦によって征討軍が引き返したことで滅亡は避けられたものの、米沢30万石のみに大幅減封される。

景勝はここで一転して謙信信仰を強化した可能性が高い。それまでの独断専行の非を避けるためにも、「先代の遺風を守る保守派」としての主張を始めたのだと思う。このことによって、長尾の名乗りはなかったこととされたのではないだろうか。

御札本望存候、如承意、去時分ハ以松庵蒙仰候、畏入候、其以来于今野州表在陣之間、是非不申達候、併背本意候、然而従江戸崎馬二疋被為牽上候歟、愚領之事、無相違馳走申候、委細御使口上相請候間、令省略候、恐々謹言、

十月九日

北条陸奥守 氏照

徳川殿 御報

→神奈川県史 資料編3「北条氏照書状案写」(古証文六)

1584(天正12)年に比定。

 お手紙をいただき本望に思います。ご意向を承ったように、あの時分は『以松庵』が仰せを受けていました。恐れ入ります。それ以来現在まで下野国方面で在陣しており、是非を申し達していません。これは本意に背きます。ということで江戸崎より馬2疋を献上しましょうか。私の領地のこと、相違なく奔走しています。詳細はご使者の口上にお願いしましたので、省かせていただきます。

武田氏の研究者である平山優の著作で、戎光祥出版の中世武士選書シリーズの1冊として刊行された。このシリーズは『武田信重』や『安芸武田氏』など、武田系の渋い品揃えで知られるが、『羽生城と木戸氏』『箕輪城と長野氏』といった関東武家のものもある。そんな中では「穴山梅雪」で比較的知名度の高い穴山氏がモチーフである。

第1章までで穴山氏が成立するまでの経緯を記述しているが、これが本当に判りやすい。そもそも甲斐武田氏が戦国大名となるのも、関東公方と京政権との確執が大きく影響している。この点を足利持氏治世から語り始め、堀越公方体制が甲斐・駿河・相模に与えたインパクトを踏まえてきちんと解説している。先行する家永遵嗣氏の研究も噛み砕いて記されており、戦国初期の成り立ちを学ぶのに適している。

穴山氏は元々武田氏が養子を使って乗っ取った形に近いのだが、武田宗家が安定せず、信虎の頃には今川方になっていた可能性が高いのだという。その後、武田晴信・穴山信友の頃には完全に武田方となり、以後は1582(天正10)年までその関係が続くという。

穴山信君の代に入ると、駿河侵攻と遠江攻防で活躍する。長篠合戦後は特に南方方面の重責を一手に担うようになるという。ところが、晴信の頃から穴山氏はさほど権限を与えられていなかった。江尻に関しては信君に占領直後は見させ、落ち着いたら山県昌景に交代させられている。急に引き立てられても、勝頼との意思疎通がうまく行く訳ではなかったようだ。

最終的には勝頼を見限った信君だが、内応の兆候は1579(天正7)年5月17日の書状から窺われるという。徳川家臣間の文書で、江尻から脱出した者がある重要な情報を持っていた。そこで家康に報告したが、引き続き夜中であっても人を派遣できるようにしている。という内容だった。これは信君の身辺で徳川と結ぶ動きがあったというのだ。

その直前の4月に、勝頼は高天神に入っている。御館の乱で上杉景勝に与したため、後北条と断交という深刻な事態になっていたが、その件を信君と対面協議したと考えられる。以下は私見だが、この時に信君は、後に実行される勝頼の外交戦略(佐竹氏と結んで後北条を挟撃し、佐竹氏経由で織田と同盟を模索する)を聞かされたのではないか。そして武田の滅亡を確信したのだと思う。たしかに、真田氏の台頭を伴いつつ、上野国計略は成功するし、伊豆でも笠原政尭の寝返りで戦局は悪くない。だが、西戦線は壊滅的だった。東美濃はすでに失い、秋葉街道の犬居谷は失陥、諏訪原も落とされ徳川方が駿河まで侵入するようになってきた。高天神の維持も危うかった。この状況で織田が武田と和睦する利点はない。織田方と反目する景勝と同盟したことでも、それは自明のことである。山県昌景の没後は一手に駿河・遠江方面の作戦を引き受けていた信君からすると、この勝頼の戦略は狂気にすら映ったと思う。

1582(天正10)年の武田滅亡後は、信君・信治・信吉と3代続けて当主を失う不運に見舞われた穴山家は、水戸徳川家に一部が吸収されつつ、ほぼ解体される。継承がうまくいけば武田宗家を復興させる予定だったというが、何とも不運であった。

ちなみに本書には、穴山信君は痔疾を病んでいて馬に乗れず、それで徳川家康と一緒に逃げられずに落命したという伝承も書かれていた。ご丁寧に信君本人の「また痔が再発。一昨年抜群に聞いた例の薬頼む。対症療法も指示して」という切実な書状も紹介。信君の父は晴信から「あの人はまた例によって大酒飲むだけで外交しない」と批判されていた(その一方で「酒席でとても無礼を働いたので暫く断酒」という逸話もあり、憎めない人柄だった模様)。1次史料でこれだけ人間味に溢れた父子も珍しい。