奥野氏が寄せてくれたコメントにより『関ヶ原前夜』(光成準治著・NHKブックス)で紹介されている文書で上杉景勝が「長尾殿」と呼ばれていたことが判った。紹介された文書は上杉氏を敵視した大名のものではない。このことから、長尾は景勝が自称したものだと考えられる。
そもそも景勝が所属したのは上田長尾氏である。その上には越後守護代である府中長尾氏が来るため、長尾一族とはいえ、ほぼ国人に近い身分だ。名乗れる筈の上杉氏は、越後守護の上杉氏の上に位置する山内家を指すため、わざわざ家格を3ランクほど落とした自称をしていたこととなる。
その理由を考える上で参考になるのが、上越市が公開した『春日山城跡保存管理計画書』内にある、以下の伝承だ(出典不明)。
慶長3(1598)年、上杉景勝は羽柴秀吉の命により会津へと国替となった。その際、景勝はあろうことか謙信の遺骸を置いたまま会津に行ったといわれる。替わって春日山城主となった堀秀治は、景勝に謙信の遺骸を会津に移すように依頼し、夏には会津に移したことが知られている。
また、『関ヶ原前夜』では、堀氏が上杉氏への讒言を行なった理由として、以下の理由を挙げている。
- その年の年貢を全て会津に持っていってしまったが、その際に現金化できるものは売るよう指示したこと
- 持ち去った年貢を堀氏に貸し付け、更に取り立ても行なったこと
- 侍と称して耕作者を多く会津に連れて行ったこと
堀氏側から見ると、結構厳しい話である。越後に入ってみたら、農民と税収は持ち去られている。城内だか寺だか不明だが、奇妙な甕があった。聞いてみると謙信の遺骸が封印されているという。当然、持ち去られた農民・税収の取り返し交渉を開始すると同時に、「甕を引き取ってほしい」と要請しただろう(「夏には会津に」というのは、異臭に怯えた堀氏にとっては切実だったに違いない)。
実は、景勝による『謙信信仰』が始まるのは米沢移封後である。それまでは、実はどう扱っていたかは知られていない。私は、家督継承後から会津時代までの景勝は「上杉」も「謙信」も嫌っていたのではないかと推測している。
上へ上へと出世意欲は旺盛だが、「自分は妻帯しない」という変なポリシーから養子を多数とっていた謙信。当然ながら継承を巡っての争いとなるし、統治機構も未整備で国人連合から脱しきれておらず、当主の権限も弱い。関東管領を名乗りながら、関東を統治できた訳でもない。
この未熟な政権を建て直し、羽柴政権の力を借りて当主専制のシステムに組み替えたのは景勝である。彼からすると、謙信が推進した府中長尾家の上杉化は、メリットどころかデメリットしかなかったという認識だろう。得意の絶頂にあった会津移封時、矛を交えた武田も後北条も織田も既になく、自分ひとりが羽柴氏の公認大名として生き残り120万石を得たという思いが強かったのではないか。
ところが、強引過ぎた移封によって堀氏から謀叛の告発を受け、最終的には羽柴政権から攻撃されることとなる。同時に勃発した関ヶ原合戦によって征討軍が引き返したことで滅亡は避けられたものの、米沢30万石のみに大幅減封される。
景勝はここで一転して謙信信仰を強化した可能性が高い。それまでの独断専行の非を避けるためにも、「先代の遺風を守る保守派」としての主張を始めたのだと思う。このことによって、長尾の名乗りはなかったこととされたのではないだろうか。
ご無沙汰しております。長期で出張に出ていて、コメントをつけるのが遅れてしまいました。
上杉景勝が謙信のことをどう思っていたのか?については僕もちょっと考えたことがありますが、謙信追慕路線が米沢転封以後というのは面白い視点だと思います。山室恭子『群雄創世記』(朝日新聞社、1995年)によれば、「三本の矢」のエピソードの原型になった毛利元就書状は、実は関ヶ原の後で輝元により編集された可能性が高いのだそうです。未曾有の敗北と領土削減によって生じ得べき動揺を抑えるため、元就の威光と「毛利の団結」神話を利用して家中の引き締めを図ったということなのですが、これは同じような境遇にあった景勝が謙信を神格化したのと、かなりの程度まで共通しているような気がします。
もしも実際に景勝が謙信を崇敬していたのであれば、
1.系譜上は養祖父にあたる上杉憲政を殺害したこと。
2.「関東管領」上杉謙信の衣鉢を継いだはずであるのに肝心の関東への執着を見せず、北条氏滅亡の際にも上野を奪還しようとはしていないし、関ヶ原の時でさえ関東進出には消極的なままであった(石田三成としては大いにあてが外れたであろう)。
3.父祖の地である越後から会津への国替えにも抵抗していない。
4.謙信以来の功臣を多数粛清。
5.子息定勝には、山内家伝統の「○郎」という仮名を与えず、自らと同じ「喜平次」を名乗らせていること。
等々の現象について説明がつかないのではないかと思います。寧ろ、謙信やそれ以前の伝統を否定してドラスティックな改革を進め、しかしそれが失敗した時点で家中再統合のため謙信伝説にすがった、という構図が見えてきます。
個人的には、景勝もこれくらい山っ気のある人物であった方が、「謙信の律儀な後継者」イメージより何倍も興味深いと思うのですが。
上杉謙信が野心を持たぬ「義将」として極端なほど神格化されているのも、景勝によるこうしたプロパガンダの影響を疑う必要があるのかもしれません。
コメントありがとうございます。三本の矢を編集したのが輝元という話は興味深かったです。山室氏は平明な文章で本格的な著作をするのですが、なぜか絶版が多く残念に思っています。『群雄創世記』は図書館で探してみようと思います。
景勝に関してのご指摘ごもっともです。ただ、定勝の喜平次名乗りは長尾路線(輝虎の長尾時代の仮名は平三で「平」が共通)なので、定勝元服までは謙信崇拝も過剰ではなかったのかと思いました。
また色々とご教示下さい。