『穴山武田氏』

武田氏の研究者である平山優の著作で、戎光祥出版の中世武士選書シリーズの1冊として刊行された。このシリーズは『武田信重』や『安芸武田氏』など、武田系の渋い品揃えで知られるが、『羽生城と木戸氏』『箕輪城と長野氏』といった関東武家のものもある。そんな中では「穴山梅雪」で比較的知名度の高い穴山氏がモチーフである。

第1章までで穴山氏が成立するまでの経緯を記述しているが、これが本当に判りやすい。そもそも甲斐武田氏が戦国大名となるのも、関東公方と京政権との確執が大きく影響している。この点を足利持氏治世から語り始め、堀越公方体制が甲斐・駿河・相模に与えたインパクトを踏まえてきちんと解説している。先行する家永遵嗣氏の研究も噛み砕いて記されており、戦国初期の成り立ちを学ぶのに適している。

穴山氏は元々武田氏が養子を使って乗っ取った形に近いのだが、武田宗家が安定せず、信虎の頃には今川方になっていた可能性が高いのだという。その後、武田晴信・穴山信友の頃には完全に武田方となり、以後は1582(天正10)年までその関係が続くという。

穴山信君の代に入ると、駿河侵攻と遠江攻防で活躍する。長篠合戦後は特に南方方面の重責を一手に担うようになるという。ところが、晴信の頃から穴山氏はさほど権限を与えられていなかった。江尻に関しては信君に占領直後は見させ、落ち着いたら山県昌景に交代させられている。急に引き立てられても、勝頼との意思疎通がうまく行く訳ではなかったようだ。

最終的には勝頼を見限った信君だが、内応の兆候は1579(天正7)年5月17日の書状から窺われるという。徳川家臣間の文書で、江尻から脱出した者がある重要な情報を持っていた。そこで家康に報告したが、引き続き夜中であっても人を派遣できるようにしている。という内容だった。これは信君の身辺で徳川と結ぶ動きがあったというのだ。

その直前の4月に、勝頼は高天神に入っている。御館の乱で上杉景勝に与したため、後北条と断交という深刻な事態になっていたが、その件を信君と対面協議したと考えられる。以下は私見だが、この時に信君は、後に実行される勝頼の外交戦略(佐竹氏と結んで後北条を挟撃し、佐竹氏経由で織田と同盟を模索する)を聞かされたのではないか。そして武田の滅亡を確信したのだと思う。たしかに、真田氏の台頭を伴いつつ、上野国計略は成功するし、伊豆でも笠原政尭の寝返りで戦局は悪くない。だが、西戦線は壊滅的だった。東美濃はすでに失い、秋葉街道の犬居谷は失陥、諏訪原も落とされ徳川方が駿河まで侵入するようになってきた。高天神の維持も危うかった。この状況で織田が武田と和睦する利点はない。織田方と反目する景勝と同盟したことでも、それは自明のことである。山県昌景の没後は一手に駿河・遠江方面の作戦を引き受けていた信君からすると、この勝頼の戦略は狂気にすら映ったと思う。

1582(天正10)年の武田滅亡後は、信君・信治・信吉と3代続けて当主を失う不運に見舞われた穴山家は、水戸徳川家に一部が吸収されつつ、ほぼ解体される。継承がうまくいけば武田宗家を復興させる予定だったというが、何とも不運であった。

ちなみに本書には、穴山信君は痔疾を病んでいて馬に乗れず、それで徳川家康と一緒に逃げられずに落命したという伝承も書かれていた。ご丁寧に信君本人の「また痔が再発。一昨年抜群に聞いた例の薬頼む。対症療法も指示して」という切実な書状も紹介。信君の父は晴信から「あの人はまた例によって大酒飲むだけで外交しない」と批判されていた(その一方で「酒席でとても無礼を働いたので暫く断酒」という逸話もあり、憎めない人柄だった模様)。1次史料でこれだけ人間味に溢れた父子も珍しい。

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