割と等閑にされる話だが、ゴシック体は歴史の研究と相性が悪い。インターネットの隆盛によって、今までは「まあいいか」で済まされてきた誤字が許されなくなってきたと思う。下記を見てほしい。

Art000

 

MSWord上で擬似的に再現したものだが、左がゴシック体、右が明朝体となっている。明朝体にすると違いが判るものの、ゴシック体ではほぼ見分けがつかないことが判る。特に「ニ」と「カ」は手ごわい。システムで明朝体を用いるのと、入力方法を変えるのが効果的ではある。要注意の「ニ」であれば、カタカナなら「n+i」と入力してカタカナ変換、数字はそのまま数字キーから変換と、使い分けている。それでも、これまでアップした文書でも間違っている箇所がありそうな気がする……。間違えてしまうと、検索でヒットしなくなるので本当に危険だ。

 

東京の浜松町駅から見下ろせる位置に、旧芝離宮公園がある。

近世に小田原を治めた大久保氏は一度失脚しており、その後盛り返したのが大久保忠朝。老中にもなった忠朝が四代家綱から埋立地を拝領したのが、ここに庭園ができるきっかけになったそうだ(園内パンフレットより)。

先日浜松町で空き時間ができたため、以前聞き及んでいた『謎の石柱』を見に行った。

2014-05-10 13.35.05
↑築山から見下ろしたところ。4本が短辺3メートル×長辺5メートルで配置され、池に突き出た位置にある。周囲の風景からちょっと浮いている。

2014-05-10 13.25.03
↑近寄ってみると、古風な立て看板がある。旧芝離宮恩賜庭園「謎の石柱」:電脳日和下駄によると、

この石柱が何のために設けられたか謎である。楼閣の跡、馬つなぎの石、熊野信仰に関係ある石造物、海運の標識塔などいくつかの説があるが確かなことは不明である。

と書いてあるという。さてそこでさらに進んでみる……。

2014-05-10 13.25.19
↑上から貼り紙が。松田憲秀の屋敷にあった門柱を、大久保氏が小田原で再利用し、更に江戸に運んできて茶室の柱にしたらしい。

などと白々しい前振りはさておき(最初からこの考証があることを知っていて来た)。でも、最近まで謎だったのは本当に知らなかった。上記ブログが2006(平成18)年に書かれた際は、まだ上の訂正文は貼っていなかった模様。公園の入り口でも案内パネルに「長い間謎でした」と書いてあった。いつどうやって判ったのだろう。

2014-05-10 13.32.51
↑石柱は高さ2メートルほど。幅は50センチ程度だった。上の方が焼けているのは、関東大震災時の火災によるそうだ。石が痩せるほどなので、結構高温だったのかも知れない。

2014-05-10 13.26.30
↑よく観察すると、割れた部分はセメントで補修している。穴は、江戸へ運ぶために空けたのか、松田氏時代から空いていたのか判らない。

庭園をそぞろ歩いている人たちは「なんだこれ?」的な視線で見ていたが、事情を知る身としては非常に感慨深いものがあった。この門柱は、松田康長や笠原政晴が出入りしたのだろうかとか、憲秀切腹を伝える使者が通ったのだろうかとか、黙想にふけること暫し。

松田憲秀屋敷については、いつも有益な情報をくれる萩真さんのブログに記事がある。ご興味のある方はぜひご一読を。

小田原城開城の日に歩く、北条の小田原:マリコ・ポーロの後北条見聞録

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私は折りを見て古書店を訪ねるのが好きだが、ブックオフは特に行くよう心がけている。不本意に二束三文で売りに出されている良書をサルベージするためだ。秋葉原店では、『日本城郭大系』の福岡・熊本・鹿児島編が1,000円で売られていたりした。

そんななか、ブックオフ多摩センター店で驚くような掘り出し物を発見した。羽深律が完訳を目指した『南総里見八犬傳―完訳・現代語版 』の第2巻が、なんと100円で売られていた。私が古文書を読むきっかけになった思い出深い本だ。もちろん購入。

あれは1998年頃だったと記憶しているが、近所の図書館でこの羽深版八犬伝を借りて世界が変わった。八犬伝は様々にリヴァイズされて現代に流布しているが、羽深律氏のように原文を遂一解釈している詳訳はなかった。登場人物や作者が何かの由来を語り出すとそれが無闇に長い。多くの現代版はこの冗長さを嫌い、そしてまた現代語のリズムに置き換えてしまっている。セルバンテスの『ドン・キホーテ』も同じような状況だが、どちらも原書に忠実な方が圧倒的に面白い。現代人の賢しらな小細工などはかえって興醒めである。
それはさておき。とにかくこの八犬伝は無類に面白く、一気に読んでしまったのだけれど、第6巻で途切れていた。物語としては不安定な箇所が一応終わって、後は犬江親兵衛の独壇場と関東大戦の予定調和だったから「まあいいか」という気にもなったのだが、やはり先は気になる。他に出版されているのは抄訳か原書しかない。さんざん逡巡した挙句、結局「続きを読みたい」という衝動のままに、岩波文庫の原書版に挑戦した。と、意外にもすらすら読める。曲亭翁の流れるような文体と総ルビに助けられながら最後まで読み通した。これで弾みがついて、戦国期の古文書を読み始めた。

第2巻は特に寂莫道人肩柳こと、犬山道節が華麗に登場する。表紙も火遁を使う道節。『忠』の珠を持つ彼は八犬士の中でも贔屓にしているので、何度読んでも楽しい。

何だかここ最近の日本では、引用・転用・盗用の区別が曖昧になっているような気がする。というのも、『無断引用』という言葉がテレビ・新聞で多く用いられているためだ。この言葉は『引用』の語義を誤っており、成り立っていない。

ネット上でも正しい用い方を意見する記事が上がっていた。

「無断引用」はやめて「盗用」か「剽窃」にしよう。
著者:末廣恒夫

「無断引用」は誤用か、メディアの造語か 著者:楊井人文(日本報道検証機構代表理事)

「無断引用」という表現はやめよう 著者:西原史暁

ちょっと整理して考えてみる。私が理解しているのは以下のような区分けである。

引用

これは無断でするもの。条件としては、引用部分が本文と区別されており、なおかつ引用が従で本文が主となる構成であること、引用元の著作物情報が併記されていることが求められる。

転用

「転載」と書くことが多い。基本的には複製行為を指す。たとえば他者の小説をそのままコピーして自分が印刷する書籍に入れること。最近ではWebを中心にデジタルコピーが広く行なわれるようになって、状況が色々と変わりつつある。著作者に無断で行なってはいけない。

盗用

その作者が自分であると偽って行なう転用。デジタルコピーは劣化がなく手軽なので、Webを介してブログの記事内容を書き写したり、画像・写真を自分のものとしてアップロードしたりと多発しているのが現状。これは完全に違法。

本来表現のプロであるメディアがなぜ「無断引用」なる奇妙な表現を使うのか。商業上の観点からすると、(原作者によるものでも、企業にとって無断であれば)転用はそもそもあってはならない。出版・放送を自社が独占することで利潤を上げているからだ。その挙句、著作権を持っている作家が版元を変更するのも嫌がる。

同じく、引用も無断で行なわれると売り上げに影響されるケースがある(いわゆる『ネタばれ』で購入者が減ったり、誤った情報流布で対応が必要になったり)。このため、マス・メディアは引用であっても情報源に確認を行なうことが多い。新商品や企業情報だと、メディアの顧客である広告主が源なので、余計に引用確認はきっちり行なう。だからこそ、テレビ・新聞は自身が業界内で使っている「無断引用」という言葉を用いているのかも知れない。

[note]以前雑誌編集に携わった経験からいうと、やはり「メーカーチェックなし」の記事は危険だという認識はあった。最悪の場合、広告部が怒鳴り込んでくる。『表現の自由』については、ほんのり空気のように漂っている感じだった。[/note]

「引用」という決め事は、知識を次世代に引き渡し継続的に課題に取り組むための貴重な権利であり智恵だといえる。先人が苦労して構築した論証や仮説にフリーライドできるのだから。もし引用に許諾が必要となり、著作者と連絡する術を持たぬ場合、研究は大きく後退してしまう。それはひいては引用元の作者にとってすら不幸なことだといえる。だからこそ、引用は無断で行なえなければならない。

ちなみにこのサイトは、引用はもちろん無断転用も歓迎する(何かの役に立つのなら)。ただ、盗用はご遠慮いただきたい。盗用が行なわれると「どちらがオリジナルか」とか「なぜ盗用したのか」とか、本論とは関係ない部分で手間がかかりそうだし、盗用先で論破されても私にフィードバックされないのが寂しい。まあそこも含めてどうしても盗用したいということだと、ネット空間では止めようはないのだが……。

1589(天正17)年8月頃に行なわれた沼田領引き渡しでは、通説だと以下のように理解されている。

1.沼田城  真田氏から後北条氏へ羽柴方監視のもと引き渡した
2.名胡桃城 真田氏が保有したまま

そしてこの状態が11月の名胡桃問題で、

1.沼田城  後北条氏が保有したまま
2.名胡桃城 真田氏から後北条氏が奪う

となったとされる。だが、このことを説明した北条氏直書状写を細かく読むと、かなり様相が異なる仮説が成り立ちそうだ。

まずは原文の該当部分を見てみる。

名胡桃之事、一切不存候、被城主中山書付、進之候、既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候、

これを私は、

[note]名胡桃のことは、一切知りません。城主中山の書付を進呈します。既に真田がこちらへ渡していると申していますので紛争ではありませんが、[/note]

と解釈した。ここでは「既真田手前へ」を「既に真田がこちらへ」としている。しかし、『手前』が「こちら」とか「自分」を指す用法なのか、原文を読んでいるうちに不図、疑問に思った。そこで用語として『手前』がどのように使われていたかの実例をリストアップして検証した。

その結果、「手前」の直前に人称が使われている5つの文例では、「<人称>の<手前>」という用法であることが判った。

一間之内にて人ゝ之手前各別候者→1間のうちでそれぞれの作業範囲が別だと

於新太郎手前致討死候→新太郎の前で討ち死にしました

彼替従其方手前可出由御心得被成候→その替地をあなたの手元より拠出するべきだとしているとのこと

就拙者手前不罷成→私のやり繰りがまかりならなかった件で

殿様御手前相違申候ハぬやうニ→殿様のお手前相違のないように

 そうすると、「真田手前へ」も「真田が手前へ」ではなく「真田の手前へ」と読む可能性がある、というよりも、そちらの可能性の方が高いのではないか。

既真田手前へ相渡申候間→既に真田の手前へ渡していると申していますので

解釈を試みると上記のようになる。そこで、前後の文と合わせて解釈してみよう。

[note]名胡桃のことは、一切知りません。城主中山の書付を進呈します。既に真田の手前(手元)へ渡していますので係争に及ぶものではありませんが、[/note]

つまり、名胡桃は沼田割譲の前に後北条氏が領有しており、割譲に当たって真田氏に渡したことなる。実は前々から、より明確な「当方」「此方」を使わず「手前」を用いていたのが疑問ではあった。謙譲の意があって「手前」を使ったのかと推測してみたが、ほぼ同時期に徳川家康に宛てた氏直書状写では「名胡桃努自当方不乗取候」と書いており「当方」を使っている。この点も、手前は「こちら」ではなく「手元」の意だという仮説を補強する。

この仮説に基づくと、文中にある不自然な2点もさらに解消する。

逆接「雖」の不可解

氏直が名胡桃について触れた文章は以下のように分解できる。逐次解釈を試みよう。

名胡桃之事、一切不存候

 名胡桃のこと、一切存じません
被城主中山書付、進之候

 城主とされる中山の書付、これを進めます

まずは重要な主張を先頭でシンプルに書いている。判りやすい。「城主とされる」とあることから、中山某は真田方だったと判る。書付を氏直が持っているということは、後北条方への寝返りがあったのかも知れない。

既真田手前へ相渡申候間

 すでに真田がこちらへ渡しておりますので
雖不及取合候

 取り合いに及ぶものではありませんが

通説だと「真田がこちらへすでに渡したのだから奪ったのではない」と解釈する。先述した家康への書状で「自当方不乗取候=こちらから乗っ取ったのではありません」とあることから、「既に真田方が明け渡した城を接収したので紛争ではない」という意図を読むことになる。

だが、それだと「雖」は不要なのだ。むしろない方がすっきりする。もう少し読み進めてみる。この後に、上杉が知行替えだといって出撃したことや、そうなると沼田が危ういという判断をしたという氏直の推測がくる。

越後衆半途打出、信州川中嶋ト知行替之由候間

 越後衆が途中まで出撃し、信州川中島と知行替えだということなので
御糺明之上、従沼田其以来加勢之由申候

 ご糾明の上、沼田よりそれ以来加勢の由申しました

細かく見てみると、現代文でいうところの「」(かぎ括弧)内の文言で、発言者をわざと氏直は書いていないが恐らく猪俣邦憲だろう。

「御糾明」とあるのは、邦憲が氏直に上申したことを指すと思う。この後で構文が崩れてやや不明瞭になるが、沼田の邦憲から加勢に行きたいと打診があったのだろうか。さらに氏直の見解が続く。

越後之事ハ不成一代古敵

 越後のことは一代ならざる古敵です
彼表へ相移候ヘハ、一日も沼田安泰可在候哉

 あの方面に移るならば一日も沼田は安泰でいられましょうや

まあここまでは言い訳の羅列。「上杉が名胡桃に入ったら沼田は維持できない」と判断したと。問題はその後で、

乍去彼申所実否不知候

 さりながら、かの申すところ実否は知りません

上杉氏南下の情報が実在するかは知らない、と氏直。確証はないと自分で言っているのだ。証拠は中山書付だけだったのだろう。他の情報源から確認をとらず、一片の書付だけで前線に攻撃命令を出したということだ。

従家康モ、先段ニ承候間、尋キワメ為可申、即進候キ

 家康からも先段承りましたので、尋ね究めるため、すぐに進めていました
二三日中ニ、定而可申来候

 二三日中にきっと連絡があるでしょう

さらに衝撃的な記述が続く。家康にも確認を取っていなかったことが判る。外交上これはまずいように思うが、氏直は強気だ。

努ゝ非表裏候

 ゆめゆめ表裏ではありません

いやどうだろう、表裏(卑怯な振る舞い)じゃないかな。という思いはさておき。先に説明した逆接「雖」が、ここに来てさらに物騒になる。

[note]真田からこちらへ渡されたもので取り合いではありません。<<でも、>>危なそうだから自己判断で加勢しました。表裏ではありません。[/note]

個人的な感覚もあるかと思うが、釈明文でこの逆接は不要だ。「其故者=その訳は・なぜならば」辺りでつなぐのが普通だと思う。「則」や「然者」でもいいが、とにかく順接だろう。なぜ逆接を用いたのか……。

名胡桃検分の謎

しかも、氏直はこの後に奇妙なことを書いている。

ナクルミノ至時

 名胡桃の時には
百姓屋敷淵底、以前御下向之砌、可有御見分歟事 百姓屋敷の淵底、

以前御下向の際に御検分なさったでしょうか。ということ。

「至時」は用例が見つからないので一先ず「とき」としておく。「名胡桃のとき」というのは「以前御下向」と併記されていることから沼田割譲時を指すと思われる。この際に、冨田・津田の両氏が名胡桃の領地を詳細に調べたことを書いているのだろう。

割譲前後で名胡桃がずっと真田領ならば、何故検分が入ったのか。沼田と名胡桃が地続きであれば判らなくもないが、実際には利根川で分断されている。しかも、真田領の内容を冨田・津田が調べたことをこの局面で何故言い出したのかも判らない。

新解釈で再検討

ではここで、新たな仮説に沿って解釈を試みよう。後北条方だった名胡桃は、沼田と引き換えに真田方に渡す裁定が下り、冨田・津田が監視役として仕切ったという前提だ。

[note]
名胡桃のことは、一切知りません。城主とされる中山の書付を進呈します。

既に真田の手元へ渡していますので、取り合いに及ぶものではありません。

<<でも、>>

「越後衆が途中まで出撃しており、信濃国川中島と知行替えだと申したとのことです。ご糾明の上で加勢したい」と沼田からそれ以来連絡がありました。

越後のことは一代ではない古敵です。あの方面に移動したならば、沼田が一日でも安泰でいられましょうか。

とはいえその報告は実否を知りません。家康よりも先段承りましたので、徹底究明するべきだとのことで、すぐに進めていますから、二三日中にきっと報告があるでしょう。

間違っても裏表はありません。

名胡桃のとき、百姓屋敷の明細は以前下向なさった際に、お見分けあったでしょうか。ということ。
[/note]

「一旦は潔く渡したものを、強引に取り返す筈もない」というのが氏直の最初の論点になる。「雖=でも」と続けて、渡した相手は真田であって上杉ではないという根拠で「条件が違うなら取り返してもいいと判断した」と強弁する。そのすぐ後に、情報が不確かであることを認め、確認作業を依頼している。文面には出さなかったものの「事実誤認なら再び真田に渡す」という暗示として、以前真田方へ引き渡した際は「百姓屋敷淵底」まできちんと確認したと補記している。こう捉えていくと全体が自然に感じられる。

ちなみに、このすぐ後に「真田は中条の地をこちらに渡す際に嫌がらせをした」と書き立てたのも、「自分たちは正直に渡したのに」という憤りが誘発されたからではないか。

純粋に文言の読み込みでこの仮説を書いてみた。後北条方が名胡桃を手に入れたのはいつか、「加勢」は誰に対して行なったのかなど、更に疑問が出てきているので、引き続き機会をみて考えていきたい。

鳴海原合戦についてはほぼ考証が固まっているのだが、『戦国遺文 今川氏編』の刊行完了を待って結論を出そうと考えている。

いるのだが、全3巻の予定が終わらずに第4巻を1年以上待った。そしていよいよ今週末の4月25日に発売となった。版元の東京堂出版にいったところ内容が公開されていた。

永禄13年 2437号 ~慶長19年 2650号
今川氏真年未詳文書 2651号~2664号
補遺 2665号~2744号
索引(人名・地名)

補遺が79号あるのは素晴らしい。ちょっとしかないが氏真の年未詳文書も楽しみだ。ただ、その下に恐ろしい文字を見つけてしまった。

※第5巻(索引等収録巻)は2015年1月に刊行の予定です。

何というか、人気が高いために連載終了できない漫画のような展開だ。来年1月と書いてあるが、過去の経験上大体半年から1年遅れると思う。「索引等」というのも解せない。索引は第4巻に入っている。「等」とは何だろう。謎だ。

ちなみに私は、歴史関係の書籍は近所で贔屓にしている書店から必ず購入するようにしている。ジュンク堂本店かAmazonであれば金曜に入手も可能だと思うのだが、馴染みの本屋を応援する。時代遅れと言われても不便でも、そこだけは譲れない。『町の本屋さん』は絶対に必要なインフラだ。

などと言いつつ、配本されるまでの1週間は果てしなく長く感じられるのだが……。

何だか最近堅苦しいことばかり綴っているので、たまには与太な話を。

黒田氏版の後北条年表で、北条氏政が隠居して『載流斎』を名乗ったと書かれていた。これは明らかな誤記で、正しくは『截流斎』である。『載流斎』にはルビで「さいりゅうさい」と書かれていたので、ルビをふった人物は余り事情に詳しくなかったのかも知れない。

ちなみに『截流斎』は禅語で、「せつるさい」と読むのが正しいようだ。Webで検索したところ、原典と思われる言葉が出てきた。

一句截流、万機寝削 (いっくせつる、ばんきしんさく)

 「一つの言葉で流れが断たれ、全てのものが消滅してしまった」という意味らしい。隠居によって諸々の流れをリセットしたいという願いが感じられる。

 氏政の父である氏康は1559(永禄2)年に隠居したのち、『太清軒』を名乗る。「太清」は道教で神格化された道子のことで、「太清大帝」と呼ばれる。また、孟浩然の詩『臨洞庭』では天空の最も高い部分を指して「太清」と言っている。

氏康の隠居が飢饉による経済破綻だったことは『戦国大名の危機管理』(黒田基樹)で指摘されており、氏康としては不本意だったのかも知れない。そのため、隠居後も君臨するために『太清軒』を名乗ったようにも見える(隠居後の印判に「武栄」という文言を使っていることからも、その可能性は高い)。

そうした父の介入を受け、なおかつその介入が最も際立った武田氏の駿河乱入事件で正妻黄梅院を失った氏政からすると、息子氏直へ家督を譲る際、隠居として介入はしないという決意から『截流斎』を号したのではないかと思った。また、織田氏に帰属する新時代に突入し、これまでの実力主義から時代が大きく転換するだろうと予測して、流れを截りたいと願ったのもあるだろう。

そう思って氏規の書状写を読むと「御隠居様又隠居」の意味合いが変わってくる。諸書ではこれを「羽柴方への服属を嫌った氏政が引き籠って抵抗した」としているが、私にはどうも逆の印象があるのだ(氏政は氏規上洛に尽力している。その一方で、天正壬午の乱で真田氏に意趣を含んだ氏直の方が沼田問題に妙に拘泥している)。

氏直は、小田原落城後に『見性斎』を名乗る。これは禅語の「直指人心、見性成仏」から来たものだと思われ、物事の本質を見極めて、自己のうちに仏をなすというような意味らしい。どうも他人に振り回されたことを反省しているような感じがする。

余談だが、古文書をずっと追っていて「真性のお人好し」としか思えない氏真の斎号が面白い。遂に武将としての望みすら捨てて京に暮らしたときに『仙巖斎』と号す。自虐の笑いを誘う号かも知れないが、何とも人を食った名前。

「オカルトを信じる?」
ある日知人に質問された。雑談の中のさり気ない一言だったが、何ともいえない違和感を感じたので、ちょっと考えてみた。

オカルトとは、出来事の原因を心霊現象で説明する方法だ。では心霊現象は何かというと、平たく言えば「幽霊」とか「前世」とか「地球外生命体」といった、あやふやな存在を指しているように思う。少なくとも科学的手法(同一条件で再現可能)を満たせない説明手法である。

その知人は話しぶりからどうやらオカルトを「信じたい」ようだ。そしてそれに賛同してほしいような雰囲気が感じられた。好奇心や大胆な構図変更による謎の解決は私も好む。だが、底なし沼のように曖昧な状況が続く「オカルト」は避けている。どうもこのジャンルに傾倒した人たちは故意に結論から遠ざかろうとしているように見える(少なくとも厳密な再現性を求めていない)からだ。結論を欲する意思がなければ議論も時間の無駄だと思う。

その知人は職務絡みの薄い関係だったので「調べていないから判らない」と答えてやり過ごした。

 暫く経って「これって歴史研究でもよくある話だ」と気づいた。明智光秀が南光坊天海になったとか、羽柴秀頼が薩摩国で余生を送ったとか、松尾芭蕉が忍者だったとか。この手の話の結句は「信じる?」で終わるような気がする。

 信じるというのは予断・偏見である。過去の経験から予測して、他の可能性を排除する意味だ。99回の約束を守ったケースでは、次回も守られるだろうという未来への偏見を持てる。これは極めて科学的だ。

 もう一つ「信じる」という行為があって、不確定な存在が実在すると願い、そしてまた実在するように解釈を歪めることである。地球外生命体の飛来、神からの啓示、死後の意識継続などがそれに当たる。これは非科学的で判りづらい。

 その手の論考として下記を読んでみた。

『悪霊にさいなまれる世界』(カール・セーガン著/早川ノンフィクション文庫)
既に絶版となっている新潮文庫版のタイトルは『人はなぜエセ科学に騙されるのか』で原題の『The Demon-Haunted World』と乖離している。

 結果、非常に面白かった。科学の基本は徹底的な懐疑と好奇心であり、他者の研究を論理的に検証する過程を経て進展すると書いている。「科学的」というと一般には技術論に立脚したものばかりが連想されるが、科学とは思考的手段なのだということが判った。

その中で、歴史研究に触れられた部分があったので後半を引用してみる。この手前で書かれているのは、歴史がいかに主観に基づいて描かれてきたかという指摘。その時々の権力者に都合よく利用されてきた『歴史』を、ではどう考えるかを以下で敷衍している。

 歴史というものは、従来尊敬されるアカデミックな歴史家が書くものだったし、体制側の中心人物が書くことも多かった。国が変われば見方も変わることなどは、まず考慮されることはなかった。客観性は、より「高い」目的のために犠牲にされたのである。この気の滅入るような事実から、そもそも歴史などは存在しないのだ、という極端な結論を出す人たちがいた。われわれが手にしているのはどれもこれも、偏った自己正当化に過ぎないというのだ。しかもこの結論は、歴史ばかりか、科学をも含む学問全体に対しても成り立つというのである。
 しかし、たとえ歴史を完全に再構成することなどできないにしても、そして、歴史を照らす灯台の光は自己満悦の荒波に今にも飲み込まれそうになっているとしても、歴史的な出来事が現実に起こっていたということや、そこに因果の糸があるということを否定できる人がいるだろうか? 主観や偏見が持ち込まれる危険性は、歴史がはじまったときからわかりきっていたことだ。トゥキュディデスはそれを警告しているし、キケロも次のように書いている。

第一の戒律は、歴史家はゆめゆめ偽りを記してはならないということ。第二の戒律は、歴史家は真実を隠してはならないということ。そして第三の戒律は、歴史家の書いたもののなかに、えこひいきや偏見があるのを疑ってはならないということだ。

 ギリシャの修辞家ルキアノスは、西暦一七〇年の著書『歴史はいかに書くべきか』でこう論じた。「歴史家は恐れを知らず、腐敗とは無縁でなければならない。誠実さと真実を愛する独立の人であらねばならない」
 実際に起こった出来事を再構成するという作業は、たとえどれほど失望させられ、危うさを感じるプロセスであったとしても、あえてそれをやるのが志高き歴史家の責務である。自分の国が侮辱されれば誰だって怒りを感じるだろう。しかし、歴史家たちはその怒りを押さえ、ときには自国の指導者たちが犯した残虐な罪を認めなければならないことを学ぶ。仕事柄、激昂した愛国者たちの攻撃をかわさなくてはならないこともあるだろう。歴史というものは、いつも必ず、人間という誤ったフィルターを通じて記述されるものなのだ。歴史家はそれを認めているし、歴史家自身に偏りがあることも認めている。実際に何が起こったかを知りたければ、かつて敵だった国の歴史家の見方も知らなくてはならない。われわれにできるのは、せいぜい少しずつ近似を良くしていくぐらいのことだ。歴史的出来事についての理解は、一歩一歩段階を踏み、自己認識を深めることによって改良していくしかないのである。(下巻73~75ページ)

 道は遠い。

ちょっと偉そうなことを書いてみる。

論文を書いた訳でも著作を世に問うた訳でもない、それどころか史学を学んだこともない身では無謀だと思うが、ネットの片隅ででも指摘しておきたい。

結論ありきの仮説を思いついて、「これなら色々と説明がつきそうだ」と立論してみるのは問題がない。「『椙山之陣』=『杉山城』だとしたら、杉山城問題へのアプローチが変わるかも」という仮説はOKだと思う。

しかし、その仮説を更に客観的に見て磨くことがないと恣意が過ぎる、つまり「都合のよい論点だけ強調し、都合の悪い論点は語らない」という悪論になる。

『戦国前期東国の戦争と城郭~「杉山城問題」に寄せて~』で竹井氏が「文献史学からのアプローチがほとんどないという点が何より問題」「丹念に文献を読み込んで明らかにする作業こそが基本であり必要」としながら、自らが引用した『戦国遺文 古河公方編』に掲載されていた6点の「相守」類似文書への言及がない。これは奇妙に感じる。「文献史学」を標榜するなら、古文書に目を通すのは当然なのに。

また、このことに縄張り論・考古学の諸氏からの指摘も管見の限り見られない。『戦国遺文』は書店でも購入できるし大きめの図書館なら置いてある。しかも古河公方編は1冊なので、1時間もあればざっと目を通すことは可能だろう。余りに横着ではないか。

何故に古文書を等閑にするのか?

「椙山之陣」と書かれた書状が出てきただけで、それを「杉山城問題」に直結してしまう短絡さはどこから来るのだろう。文書が他とどう連携しているのか、「椙山」「杉山」という地名はどういう文書で出てくるのか……それらをクリアしなければ、椙山之陣=杉山城問題とはならない。

それこそ、竹井氏が指摘する「丹念に読み込む」作業が欠如している。できるだけ文書の解釈を遠ざけたいという秘かな意図すら感じられる。

この辺の事情は、戦国時代の史料を体系的に分析した解釈用例集がないという点に起因すると思っている。全体の流れを掴むには、逆説的ではあるが、1点ずつ古文書を解釈していくしかない。その蓄積がないために、類例探しや比較が疎かになっているように感じられる。

そもそも用例集がないというのは、学問の入り口にいる者は大変困る(研究家として既に名を成している方は多数の文書を読んで覚えているのだろうけれど)。『時代別国語辞典』があるにはあるが、語彙も文脈によって変わるものだから、やはり用例が豊富にないと修得は難しい。初心者から言えば、根拠とする文書1つ1つを、その研究家がどう読んだか書いておいてほしい。しかし、それを試みているのは『戦国のコミュニケーション』(山田邦明氏)、『武田信玄と勝頼』(鴨川達夫氏)、『戦国時代年表 後北条氏編』(下山治久氏)ぐらいでしかない。

ではどうすれば?

きちんと逐語訳のような形で残していかないと、後進も同じ時間を費やして解釈に取り組まなければならず、長い目で見ると無駄が増えてしまう。伝統工芸の秘伝技みたいな状況を何とか変えた方がよいのではないか。せめて何らかの公的DBのようなものを用意して、「自分の著作で使った文書は、ここに解釈文を載せること」という決まり事を作るとか。

現在話題になっているSTAP細胞論文を調べた際に、生物学では実験の生データを登録する公式DB(NCBI Databeses)があると知った。これが史料研究でもほしいと切実に感じた。

1文書の比定(場所・年・人物)がずれると、必然的に他の文書にも一斉に影響が出るわけで、それが武田とか後北条とかの権力ごとに分かれた現状の研究体系では拾い切れない……というかデジタル技術が使えるのだから拾えるようにしてほしい。

統一DBでは解釈を巡っては論争が絶えないだろうけど、用例が増えていけば止揚して細かい点まで解釈を掘っていけると思う。

『「城取り」の軍事学』(西股総生・学研)を読んで興味を持ったので、伊豆国鎌田城について検討してみたい。本書は現在の城郭論の到達点を判りやすく要約しており、また実地に基づいた考証は書架から離れない私のような文献中毒にはとても参考になる内容だ。ただ、「不本意な城」(238ページ)という部分は些か強引である。甲斐国栃穴御前山城が、周辺に間道しか持たず、道志山塊と桂川に挟まれて集落もない場所に存在していることを指摘して、なぜこのような場所に精巧な縄張りの城があるのかと疑義を述べている。

守るべきものなど、最初から何もなかったのだ。つまり、われわれが「なぜこのような場所に城があるのだろう」と考えるように、その地域に攻め込んできた軍勢にも「なんで、こんな所に城があるのだ」と思わせるような城だったのではないか、ということだ。これは屁理屈だろうか?

と書いている。その論拠として、本城に連動して側面支援する機能を挙げつつ、侵攻者に不利な部隊運用を強制させる配置であろうとしている。だが、そうだろうか。近代の国民国家による大規模な戦争ならともかく、散発的で小規模な戦国期の城が「相手を混乱させるため」だけに城を築いたりするのだろうか……。

栃穴御前山と同じ謎の城として挙げられている伊豆国鎌田城に関しても「伊東の町から中伊豆に抜けるルートとしては冷川峠越えがあるが、鎌田城は、このルートからも伊東の町からも外れた場所にあって、周囲には集落もない」とし、そんな場所に枡形虎口や重ね馬出という極めて技巧的な縄張りが配されているのを「謎」としている。

西股氏は集落・街道・農耕地にこだわって城のあり方を考えている。それは問題ないのだが、実はもう1つ重要な要素があることを忘れているのではないだろうか。それは、森林資源だ。化石燃料のない時代であるから、木材は燃料(炊事から製鉄、製陶など)のほか、建築資材であり照明素材であり、武器の原料でもあった。陸送と石油エネルギーに慣れ切った現代では林業は防災的な位置取りでしかないが、山から切り出した材木を川下りさせて遠隔地に運ぶ事業はとても重要なものだったと考えられる。

『軍需物資から見た戦国合戦』(盛本昌広・洋泉社新書y)にその記述がある。

 北条氏は天正年間後半に伊豆国桑原郷(静岡県函南町)の百姓に狩野山や伊東山に入り、大野・仁杉氏の指示に従って材木を受け取り、伊東(静岡県伊東市)まで運ぶことを何度も命じている (79ページ)

同書の別箇所で指摘しているが、使用地が西伊豆の君沢郡であっても、陸路冷川峠を越えるのではなく、伊豆半島を周回して西伊豆に運んでいた。つまり、天城(狩野)山と、その北にあると思われる伊東山から切り出された材木は、伊東大川の上流で筏に組まれて河口部に下り、一旦伊東湊に集積されるのが決まりだったようだ。

このことから、鎌田城の位置取りが判る。主要ルートである冷川峠や港湾施設ではなく、森林資源の搬出ルートを防衛する意図を持っていたのだろう。従来は食料と人的資源を侵略者が狙うだろうという説明が多かったが、森林資源を奪い尽くしてさっさと引き上げる可能性も高い。伊東大川の上流部に位置する鎌田城は、天城山系資源の防衛地点としてはうってつけだ。また、桂川が鶴川と合流する直前に築かれた栃穴御前山城も、この見地から見ると不思議ではなくなる。

同様に占地意図が不明と西股氏が指摘している、秩父の千馬山城・釜無川の白山城・高遠の的場城・八王子の浄福寺城についても、何れも森林資源と無関係ではない立地である点を踏まえて再考する必要があると考えている。