鰯の頭

「オカルトを信じる?」
ある日知人に質問された。雑談の中のさり気ない一言だったが、何ともいえない違和感を感じたので、ちょっと考えてみた。

オカルトとは、出来事の原因を心霊現象で説明する方法だ。では心霊現象は何かというと、平たく言えば「幽霊」とか「前世」とか「地球外生命体」といった、あやふやな存在を指しているように思う。少なくとも科学的手法(同一条件で再現可能)を満たせない説明手法である。

その知人は話しぶりからどうやらオカルトを「信じたい」ようだ。そしてそれに賛同してほしいような雰囲気が感じられた。好奇心や大胆な構図変更による謎の解決は私も好む。だが、底なし沼のように曖昧な状況が続く「オカルト」は避けている。どうもこのジャンルに傾倒した人たちは故意に結論から遠ざかろうとしているように見える(少なくとも厳密な再現性を求めていない)からだ。結論を欲する意思がなければ議論も時間の無駄だと思う。

その知人は職務絡みの薄い関係だったので「調べていないから判らない」と答えてやり過ごした。

 暫く経って「これって歴史研究でもよくある話だ」と気づいた。明智光秀が南光坊天海になったとか、羽柴秀頼が薩摩国で余生を送ったとか、松尾芭蕉が忍者だったとか。この手の話の結句は「信じる?」で終わるような気がする。

 信じるというのは予断・偏見である。過去の経験から予測して、他の可能性を排除する意味だ。99回の約束を守ったケースでは、次回も守られるだろうという未来への偏見を持てる。これは極めて科学的だ。

 もう一つ「信じる」という行為があって、不確定な存在が実在すると願い、そしてまた実在するように解釈を歪めることである。地球外生命体の飛来、神からの啓示、死後の意識継続などがそれに当たる。これは非科学的で判りづらい。

 その手の論考として下記を読んでみた。

『悪霊にさいなまれる世界』(カール・セーガン著/早川ノンフィクション文庫)
既に絶版となっている新潮文庫版のタイトルは『人はなぜエセ科学に騙されるのか』で原題の『The Demon-Haunted World』と乖離している。

 結果、非常に面白かった。科学の基本は徹底的な懐疑と好奇心であり、他者の研究を論理的に検証する過程を経て進展すると書いている。「科学的」というと一般には技術論に立脚したものばかりが連想されるが、科学とは思考的手段なのだということが判った。

その中で、歴史研究に触れられた部分があったので後半を引用してみる。この手前で書かれているのは、歴史がいかに主観に基づいて描かれてきたかという指摘。その時々の権力者に都合よく利用されてきた『歴史』を、ではどう考えるかを以下で敷衍している。

 歴史というものは、従来尊敬されるアカデミックな歴史家が書くものだったし、体制側の中心人物が書くことも多かった。国が変われば見方も変わることなどは、まず考慮されることはなかった。客観性は、より「高い」目的のために犠牲にされたのである。この気の滅入るような事実から、そもそも歴史などは存在しないのだ、という極端な結論を出す人たちがいた。われわれが手にしているのはどれもこれも、偏った自己正当化に過ぎないというのだ。しかもこの結論は、歴史ばかりか、科学をも含む学問全体に対しても成り立つというのである。
 しかし、たとえ歴史を完全に再構成することなどできないにしても、そして、歴史を照らす灯台の光は自己満悦の荒波に今にも飲み込まれそうになっているとしても、歴史的な出来事が現実に起こっていたということや、そこに因果の糸があるということを否定できる人がいるだろうか? 主観や偏見が持ち込まれる危険性は、歴史がはじまったときからわかりきっていたことだ。トゥキュディデスはそれを警告しているし、キケロも次のように書いている。

第一の戒律は、歴史家はゆめゆめ偽りを記してはならないということ。第二の戒律は、歴史家は真実を隠してはならないということ。そして第三の戒律は、歴史家の書いたもののなかに、えこひいきや偏見があるのを疑ってはならないということだ。

 ギリシャの修辞家ルキアノスは、西暦一七〇年の著書『歴史はいかに書くべきか』でこう論じた。「歴史家は恐れを知らず、腐敗とは無縁でなければならない。誠実さと真実を愛する独立の人であらねばならない」
 実際に起こった出来事を再構成するという作業は、たとえどれほど失望させられ、危うさを感じるプロセスであったとしても、あえてそれをやるのが志高き歴史家の責務である。自分の国が侮辱されれば誰だって怒りを感じるだろう。しかし、歴史家たちはその怒りを押さえ、ときには自国の指導者たちが犯した残虐な罪を認めなければならないことを学ぶ。仕事柄、激昂した愛国者たちの攻撃をかわさなくてはならないこともあるだろう。歴史というものは、いつも必ず、人間という誤ったフィルターを通じて記述されるものなのだ。歴史家はそれを認めているし、歴史家自身に偏りがあることも認めている。実際に何が起こったかを知りたければ、かつて敵だった国の歴史家の見方も知らなくてはならない。われわれにできるのは、せいぜい少しずつ近似を良くしていくぐらいのことだ。歴史的出来事についての理解は、一歩一歩段階を踏み、自己認識を深めることによって改良していくしかないのである。(下巻73~75ページ)

 道は遠い。

Trackback

no comment untill now

Sorry, comments closed.