定 (今川氏輝花押)
一、遠州国源山昌桂寺、依為桂山菩提所、当知行新野池新田令寄進之事
一、自今以後於彼新田、惣百姓・代宮不可有綺事
一、地頭之百姓下人等、棟別・諸国役永為不入閣之事但他郷之家不可移作事
一、百姓等会下普請、毎事於致無沙汰輩者、可逐払事
一、於其城国方又者屓贔輩者、不可成其綺事
 右、於此旨違犯之族者、堅可加下知者也、仍如件、
享禄五年九月三日
昌桂寺

→戦国遺文 今川氏編487「今川氏輝判物」(正林寺文書)

 定め書き。一、遠江国源山昌桂寺は、桂山の菩提所としているので、当知行新野新田を寄進すること。一、これ以後はあの新田において、惣じて百姓・代官は不正をなさないようにすること。一、地頭の百姓・下人らは、棟別・諸国役を差し置くことなく末永く負担すること。但し、他郷の家に作事を移してはならない。一、百姓らの会下普請で、毎回無沙汰に及ぶ者がいれば追い払うべきこと。一、その城において、国方または贔屓を行なうならば、その不正は成してはならないこと。右の旨に違反する者は、厳重に処罰するものである。

雖以直書可申入候、両三度不預御返答候、不審之処ニ、書礼慮外之由、於其国御存分之由承及候、更一両年以来相違之儀無之候、但自然御存分有之者、可認置候、○[不可有略儀候、]諸事相紛処、不可過御計量旨被成取、進退之義、弥御馳走其方任置候、委細当口之模様大石可為口説候、恐々謹言、
[永禄十年ノ状也、]九月三日
 氏真
山吉孫次郎殿

→戦国遺文 今川氏編「今川氏真書状写」(歴代古案一)

 直接の書状で申し入れましたが、3度にわたって受け取れないとのご返答でした。不審に思っていたところ、書札礼に配慮がなかったとのこと。その国においてお考えのことを承りました。さらに、一両年以来相違がありませんでしたが、万一お考えがあるならば、認め置きましょう。(略儀があるべきではありません)諸事に紛れているところですが、ご検討が過ぎるということはない旨をお取り成しいただき、進退のことは、ますますの奔走をあなたにお任せします。詳細とこちら方面の状況は大石がご説明するでしょう。

親候義元以来之被任筋目、態御使僧、祝着候、殊ニ向後別而可被仰合由、勿論ニ候、猶朝比奈備中守・三浦次郎左衛門尉可申候、恐々謹言、
十二月廿一日
 源氏真
謹上 上杉殿

→戦国遺文 今川氏編2158「今川氏真書状写」(上杉家文書)

永禄10年に比定。

 親である義元以来の筋目によって、折り入ってご使僧をお送りいただき祝着です。特に、今後は格別に協議しようとのこと、言うまでもありません。更に朝比奈泰朝・三浦氏満が申すでしょう。

[印文「帰」]するかの国さわたのかうのうち、にしふん五とうせんゑもんあいかゝゆるてんはくやしきの事
右、きたかわ殿御とき、けんちあつて御さためのことく、百六十三くわん六百文ねんくいけさういなくなつしよせしめ、ひやくしやうしきとして、あいかゝへへし、もしよこあいよりかのかゝへのふんのそむやからありといふとも、さういあるましきものなり、仍如件、
享禄二[己丑]
十二月七日
五とうせんゑもんとの

→戦国遺文 今川氏編465「寿桂尼朱印状」(沼津市西沢田・後藤文書)

 駿河国沢田郷のうち、西分で五藤せん衛門が保持する天白屋敷のこと。右は、北川殿の頃に検地があってお定めになった通り、163貫600文の年貢以下相違なく納所させて、百姓職として保持するように。もし横合いよりその保持に背く輩がいたとしても、相違があってはならない。

[端裏書]「十一月晦日」
 内谷村長慶寺方酉年指出之事
五石弐斗八升 此内損毛壱石八斗一升五合 三郎兵衛分
六石三斗 同三石三斗四升五合 三郎衛門
六石五斗 同弐石一斗二升 千代大郎分
拾弐石六斗 同四石弐斗七合 海蔵寺二分
弐石八斗七升 同九斗八升五合 清衛門
 以上参拾三石五斗五升
  此内損毛
拾三石七升二合 当損毛、此外三石五斗をハ我々か引物水上御蔵へ参候分ニ被引候
五石五斗 諸引物
  引残而可■分
拾四石九斗七升八合
 此俵数
五拾九俵弐斗二升八合 公方升三斗六升俵勘定也、
天文十八[己酉]年十一月晦日

→戦国遺文 今川氏編919「長慶寺方年貢書出」(静岡市駿河区向敷地・徳願寺文書)

 内谷村長慶寺方酉年指出の事。5石2斗8升、このうち損毛1石8斗1升5合(三郎兵衛分)。6石3斗、同じく3石3斗4升5合(三郎衛門)。6石5斗、同じく2石1斗2升(千代大郎分)。12石6斗、同じく4石2斗7合(海蔵寺二分)。2石8斗7升、同じく9斗8升5合(清衛門)。以上33石5斗5升、このうち損毛13石7升2合(当年の損毛)。このほか3石5斗を我々の引物として水上御蔵へ行った際に差し引いています。5石5斗(諸引物)。引き残した分が14石9斗7升8合。この俵数は59俵2斗2升8合(公方升3斗6升で俵を換算)。

得願寺代々被拘置末寺・末庵之事
右、如前々当寺可為支配、若対当住於無沙汰之輩者、従本寺可被相計者也、
天文廿年九月廿三日
 治部大輔(花押)

得願寺 宗英和尚

→戦国遺文 今川氏編1037「今川義元判物」(静岡市駿河区向敷地・徳願寺文書)

 徳願寺が代々抱えておられる末寺・末庵のこと。右は、以前のように当寺が支配するように。もし当住持に対して無沙汰をする輩があれば、本寺より計らわれるように。

 義元袖判
たゝしうつたりちやうけいしかたむまのとしよりのそうふん、弐拾俵の事ハ、水のミの弥七郎に、わか身そんしやうの内ハ出し候、のちゝゝの事ハゐんはんのことく一ゑんにしよむあるへし、かしく、
[印文「帰」]天文十八年[つちのととり]十一月廿三日
 しゆけい
とくくわんしそうゑい長老

→戦国遺文 今川氏編918「寿桂尼朱印状写」(駿河志料巻七十五徳願寺文書)

 但し、内谷村長慶寺方は、午年よりの増分20俵のことは、水呑の弥七郎に、私が存命の間は渡しています。後々のことは印判のように一円に所務するように。

節々音問祝着候、如露先書候徳一色落居、元来堅固之地利ニ候之間、不及普請、本城三枝土佐守二三之曲輪、朝比奈駿河守・同名筑前守在城、去十五日清水之津江移陣築地利、岡部豊前守以下海賊衆差置、今日納馬候、佐久郡衆者其表之備ニ候之条、昨日帰国、先以可御心易候、抑八十日在滞、敵城五ケ所責落候之処、小田原衆一騎一人不萌、誠弱兵不可過狭量候、恐々謹言、
二月廿二日
 信玄(花押)
高山大和守殿

→戦国遺文 今川氏編2445「武田晴信書状」(群馬県・高山吉重氏所蔵文書)

永禄13年に比定。

 折々にご連絡をいただき祝着です。先の手紙でお書きしましたように、徳一色が陥落しました。元々堅固な地形だったので普請に及ばず、本城に三枝土佐守、2~3の曲輪に朝比奈駿河守・筑前守が在城しました。去る15日に清水の津へ陣を移して地利を築き、岡部豊前守以下の海賊衆に差し置き、今日馬を納めました。佐久郡の衆はその方面の防備をしていますから、昨日帰国しました。まずはご安心下さい。そもそも80日滞在し、敵の城5箇所を攻め落としたところ、小田原衆は1騎・1人も見えず、本当に弱兵で狭量であることはこれ以上ありません。

今度花澤有城中、正月四日ニ於小坂口討候間、御走回候、同十六日ニ於大手口鑓合、無比類御働候、氏真様於御本意者、御忠信之段急度御談合可申者也、仍如件、
午 二月五日
 大原肥前守 資良(花押影)
鱸木源六殿

→戦国遺文 今川氏編2441「大原資良判物写」(東京大学史料編纂所架蔵阿波国古文書四所収鈴木勝太郎氏所蔵文書)

 この度花澤の城中にあり、1月4日に小坂口を討った際に、ご活躍しました。同月16日に大手口において槍を合わせ、比類なくお働きになりました。氏真様がご本意となりましたら、ご忠信の段は取り急ぎご報告するでしょう。

(今川義元花押)
[印文「帰」]するかのくにしたの郡うつたりの郷のうち、ちやうけいしかた[田はたけ 山屋しき]本そう共ニ一所之事
右、ほたいのために、新きしんとして、なかくまゐらせ候うへハ、ちきに取務あるへく候、かしく、
[印文「帰」]天文十八年[つちのとのとり]十一月廿三日
 しゆけい
とくくわんしそうゑい長老

→戦国遺文 今川氏編917「寿桂尼朱印状」(静岡市駿河区向敷地・徳願寺文書)

 駿河の国志田郡内谷郷のうち、長慶寺方の田畑・山・屋敷の本分・増分ともに一所のこと。右は、菩提のために新たな寄進として末永く進呈しまますので、直接管理していただきますように。