御札本望存候、如承意、去時分ハ以松庵蒙仰候、畏入候、其以来于今野州表在陣之間、是非不申達候、併背本意候、然而従江戸崎馬二疋被為牽上候歟、愚領之事、無相違馳走申候、委細御使口上相請候間、令省略候、恐々謹言、

十月九日

北条陸奥守 氏照

徳川殿 御報

→神奈川県史 資料編3「北条氏照書状案写」(古証文六)

1584(天正12)年に比定。

 お手紙をいただき本望に思います。ご意向を承ったように、あの時分は『以松庵』が仰せを受けていました。恐れ入ります。それ以来現在まで下野国方面で在陣しており、是非を申し達していません。これは本意に背きます。ということで江戸崎より馬2疋を献上しましょうか。私の領地のこと、相違なく奔走しています。詳細はご使者の口上にお願いしましたので、省かせていただきます。

昨廿七日、於武州松山、越国衆追崩、敵一人打捕、忠節候、向後弥至ゝ走廻者、急度可及恩賞者也、仍如件、

永禄二年

十一月廿八日

氏政 判

小畑太郎左衛門殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏政感状案写」(古文書二)

1561(永禄4)年に比定。永禄二年ではなく、永禄[二二]年だったと思われる。

 去る27日、武蔵国の松山で越後国を追い崩し、敵1人を討ち取りました。忠節なことです。今後はますます活躍するなら、取り急ぎ恩賞に及ぶでしょう。

態馳筆候、抑東国鉾楯無際限事、且云味方中労苦、且云万民無安堵思、旁以今年関東可討是非議定候、当月之事者、漸無余日候、何様来月者、必可越山候、定而甲相両軍茂可出張候間、以防戦一途可落着候、於勝利者無疑候、然者上武之間、何之地立馬候共、人数打振、頓速着陣簡要候、尤可被稼此時候、為其兼而及届候、恐々謹言、

八月廿四日

景虎在判

長尾新五郎殿

→神奈川県史 資料編3「長尾景虎書状案写」(北越家書八)

1560(永禄3)年に比定。

 折り入って筆を馳せます。そもそも東国の紛争は際限がないこと。そして言われるのが味方中の労苦、そしてまた言われるのが万民が安堵の思いをすることがないことです。その一方で、今年関東でこれを討つべきかの是非を議定しました。今月はもう日もありませんが、どのようにしても来月は必ず越山するでしょう。きっと甲斐国・相模国の両軍も出撃してくるでしょうから、専守で落着して下さい。勝利については疑いありません。ということで、上野国・武蔵国の間では、何れの地で馬を立てるとしても、軍勢を振り分けての素早い着陣が肝要です。実績を上げるのはこの時でしょう。そのために前々からご連絡しています。

愚身腹中先日之以良薬悉平癒候、公用中養性薬迄用度候間、重而可被御意候、従今朝無之候、五三日者取乱、無音申候、本意之外候、かしく、

豊前山城守殿  氏政

→神奈川県史 資料編3「北条氏政書状案写」(古文書八上)

 私の腹中は先日の良薬によって完全に治りました。公用中の養生薬として使いたいので、重ねて御意が得られればと思います。今朝でなくなってしまいましたが、ここ数日は取り乱していてご連絡できませんでした。本意ではありません。

今度無二可為一戦条、抛身命可被走廻候、於遂本意者、恩賞者、戦功次第可任望候、所無偽八幡大菩薩可有照覧者也、仍状如件、

元亀二年 辛未

正月七日

氏政御判

小倉内蔵助殿

→神奈川県史「北条氏政判物案写」(小倉文書)

 今度無二の一戦を行なって、身命を投げ打って奮闘してくれました。本意を遂げられたなら、恩賞は戦功次第で望みのままです。偽るところはありません。八幡大菩薩も御照覧ありますように。

態令啓候、抑一両年者、以佞人之所行、進退被御覧捨候之間、無了簡、小田原へ申合候間、絶音問候、然者駿甲不慮ニ不和、既従甲駿へ乱入候、駿甲累年如鼎之三足被相談候之処ニ、今川氏真越府へ内通之由有之、従甲不慮ニ被取懸候、駿府無備故、遠州懸川へ被移候、相府之事、不被曲誓約之筋目、氏真為引立可有御申置、豆州三嶋張陣、駿州之内蒲原・興国寺・長久保・吉原ヲ為始、以豆相之衆、堅固ニ被相抱候、其上年来之被抛是非、越府與有一味、信玄へ被散鬱憤度、以逼塞、旧冬自由倉内在城之方へ内義被申候処、従松石・河伯以使被御申立之由候、従両所依承筋目、重而従由以直札被申候、被聞召届、宜被御申調義、可為簡要候、時宜御入眼、向信甲年来之可被散御無念儀、此時候、恐々謹言、

正月十六日

 由信

  成繁

河豊

 御宿所

→神奈川県史「由良成繁書状案写」(歴代古案一)

 折り入ってご連絡します。そもそも一両年は捻くれた人間の所行によって進退をお見捨てになっておいでなので、了見もありません。小田原へ問い合わせましたが連絡が途絶えていました。ということで、駿河(今川方)と甲斐(武田方)が思いがけず不和となり、既に甲斐国より駿河国に乱入。駿河国と甲斐国(と相模国)は長年鼎の三つ足のように相談し合う仲でしたが、今川氏真が越後府中へ内通したとのことで、甲斐国からいきなり攻撃をしています。駿府は防備の準備もなく、遠江国掛川へ移動しました。相模府中(後北条氏)は誓約の筋目を曲げることなく、氏真を補佐するため伊豆国三島に着陣。駿河国内の蒲原・興国寺・長久保・吉原を初めとして、伊豆・相模の軍勢を使って堅固に拠点維持しています。その上年来の事情を投げ打って、越後府中(上杉氏)と一味。信玄への鬱憤を晴らすべく、秘かに、昨冬由良より倉内在城の人間へ内々で打診がありました。松石(松本石見守)・河伯(河田伯耆守)が使者より申し立てられ、両所より筋目を承り、重ねて由良から直接の手紙で事情を説明しましたので、お聞き届けられました。宜しくご調整いただくことが大切です。時宜に合わせてお目にかけて下さい。信濃・甲斐に向けて年来のご無念を晴らすのはこの時です。

1569(永禄12)年に比定。

態可申入之処、此方使ニ被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候ハゝ、則可申入候、猶委細遊雲斎可申宣候、恐々謹言、

四月十五日

 三浦次郎左衛門

      氏満

 朝比奈備中守

      泰朝

直江大和守殿

柿崎和泉守殿 御宿所

→神奈川県史「朝比奈泰朝・三浦氏満連署書状案写」(歴代古案二)

 こちらから申し入れるべきところ、こちらの使者にあなたの使者を添えていただき通信できました。甲斐国の若夫人が帰国した件。氏康父子が調停しようと申し出ましたが「氏真の誓詞がなく覚悟に及んでいない」と信玄が放言し、放置しておく訳にもいかずその意図に添うようになさいました。要明寺に指し越された時分、互いに抜け駆けはするまいと堅く申し合わせたことがあったことを申し上げます。このような事があったのに、信玄は裏表のある人物なのですぐに申し入れるべきでしょう。さらに詳細を遊雲斎が申し上げます。

本書状は(1564(永禄7)年)と比定されている。

如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候、仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、就中、駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、抑自清須御使并預貴札候、忝候、何様御禮自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々謹言、

十七年

三月十一日

氏康 在判

織田弾正忠殿

御返報

→戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康書状案写」

お手紙のように、近年は遠路もあって書状が滞っておりました。丁寧にご連絡いただいて嬉しく思います。三河国のことですが、駿河国に相談もなく、去年あの国に向けて軍を進め、安城城をすぐに陥落させたとのこと。いつものご戦功、素晴らしいことです。ことに岡崎城をその国より押さえていることで、駿河国にも今橋で本意を遂げられ、それ以後、その国では万事の支配が相違してしまったのでしょうか。このことで、あの国に詰められたと承りました。無理もないことです。特に駿河国とこちらの関係でお尋ねいただきました。近年和平を結びましたが、あの国から疑心が止むことがなく困惑しております。清須から御使者とお手紙を頂戴したこと、かたじけなく思います。とにかくお礼を申し上げます。詳しいことは御使者よりご説明があることでしょう。

貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故不申入候、背本意存候、抑駿州此方間之義、預御尋候、先年雖遂一和候、自彼国疑心無止候、委細者、御使可申入候条、令省略候、可得御意候、恐々謹言、

天文十七

三月十一日

氏康 在判

織田弾正忠殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康書状案写」

 お手紙拝見しました。本望の至りです。近年は遠路もあって書状も滞っておりましたが、本意ではありません。駿河国(今川氏)と我々とのことをお尋ねでしたが、先年和平を結んだとはいえ、あの国からの疑心は止みません。詳しくは御使者にお伝えしましたので省かせていただきます。お心に添いますように。