一今度九八郎就構逆心、可加成敗之処、各親類九八郎於永高野江追上、監物儀谷可引入之由、達而之懇望之条、赦免之上、本地并諸親類本知不可有相違、若給方へ雖出置、無異儀可還附事、
一被官百姓、忩劇以来、雖出他之被官、可返付、自然其身於不相帰者、名職・田地・切符・野山等迄可還附事、
一年貢米銭雖有未進、給方共可還附事、
一諸親類被官百姓有申事、於相退者、拘置領分、無相違可還附事、
一神領・寺領等如前々無相違出置事、仍如件、
弘治弐年 十月廿一日
治部大輔 判
奥平監物殿

→静岡県史 資料編7「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)

 一、この度九八郎が逆心を構えたので成敗を加えるべきところ、それぞれ親類が九八郎を末永く高野山に追い上げ、監物のことは谷に引き入れるという。たっての懇望であるから、赦免の上、本知行と親類諸氏の本知行も相違ないように。もし『給方』に拠出していても、異議なく還付すること。
 一、被官・百姓が紛争以来他の被官となっても返付するように。万一その者が帰らなかった場合は、名職・田地・切符・野山に至るまで還付すること。
 一、年貢米銭に未納があったとしても、『給方』も共に還付すること。
 一、親類諸氏の被官・百姓が異議を唱えて逐電するならば、抱えていた領地は相違なく還付すること。
 一、神領・寺領などは以前の通り相違なく拠出すること。

今度一乱、於当構并方上城・葉梨城、別而抽粉骨畢、甚神妙至感悦也、然間、一所有東(有度郡)福島彦太郎分、一所小柳津真金名斉藤四郎衛門分、一所勝田内柿谷篠原形部少輔分等之事、一円於子孫充行畢者、弥可抽忠功之状如件、

天文五丙申年十一月三日

義元(花押)

岡部左京進殿

→静岡県史 資料編7「今川義元判物写」(土佐国蠧簡集残編三)

 この度の一乱で、こちらの拠点と方上城・葉梨城で格別の活躍をしてくれた。大変な神妙の至りで感悦した。であるので、有度郡の福島彦太郎分を一所、小柳津真金名の斉藤四郎衛門分を一所、勝田内柿谷の篠原刑部少輔分など、一円を子孫まで宛行なうものである。いよいよ忠功にぬきんでるように。

駿河国入江庄之内和矢部朝比奈弥次郎方之事

右、依致朝夕奉公、為本領宛行所也者、守先例可成敗状、仍而如件、

明応五年六月八日

五郎(花押)

岡部左京進殿

→静岡県史 資料編7「今川氏親判物写」(能勢文書)

 駿河国入江荘内の和(北?)矢部の朝比奈弥次郎方のこと。右は、朝夕に奉公したことにより本領として宛行なうものである。先例を守り成敗するように。

感状之知行書立之事、

千八百七拾四貫文 葛山領佐野郷

貮百貫文     ゝ  葛山堀内分

百貫文      ゝ  清五郷

以上貮千百七拾四貫文

此内、

千貫文 先日感状之地、

千七拾四貫文 一騎合百六騎

但、壱人拾貫文積、

百貫文    歩鉄炮廿人

右、以今度之忠功如此申付候条、父上上野守走廻間者別様ニ致立、其方一旗ニ而可取、以恩賞之地致立人数、可及作謀者也、仍而状如件、

永禄十二 己巳

壬 五月三日

氏政公御有印綬有

清水新七郎殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政判物写」(清水一岳氏所蔵文書)

感状による知行一覧のこと。1,874貫文は葛山領の佐野郷、200貫文は同領葛山堀内分、100貫文は同領清五郷。以上2,174貫文。このうち、1,000貫文が先日感状の地である。1,074貫文は一騎合を106騎となる。但し、1人は10貫文の換算となる。100貫文は歩侍の鉄炮を20人。
右はこの度の忠功をもってこのように申し付けるものである。父上の上野守が活躍している間は別立てとして、あなたにひと旗を取らせます。恩賞の地を使って部隊を編成し、可能な限り謀を巡らすように。

遠江国西手中尾生城、二俣近江就上表中、斎藤四郎衛門依申、長能ニ申付就、然者西手知行分、如二俣時為不入可所務、并奥山之儀領掌訖、彼地之下人等引付致所務、有在城可励忠節者也、仍如件、

天文四年乙未年十月十八日

氏輝 判

匂坂六郎五郎殿

→静岡県史「今川氏輝判物写」(今川一族向坂家譜)

 遠江国西手の中尾生城は、二俣近江守の報告書の中で斎藤四郎衛門が報告したことにより、長能に(守備を)申し付ける。ということで西手の知行分は二俣の時のように不入とし領有するように。同時に奥山のことは了解した。あの地の下人たちを裁断して領有し、在城して忠節に励むように。

駿河国下方内大塚郷雅村太郎左衛門尉為久名主職此内神尾右京亮譲分共、并新屋名等之事

右、代々証文近日逢盗賊失却云々、縦従他之手雖出之、不可有許容、兼又親類割分事、於令同心者可為如前々、至于有異儀者、為久宜様可相計、定納年貢納所以下等者、可為如年来之状如件、

大永八戊子年八月七日

五郎(花押)

雅村太郎左衛門尉殿

→静岡県史「今川氏輝判物写」(判物証文写附一・内閣文庫所蔵)

 駿河国下方の大塚郷、雅村太郎左衛門尉為久の名主職(神尾右京亮遺産含む)、並びに新屋名などのこと。右は、代々の証文を最近盗賊に逢って紛失したという。(証文が)たとえ他の者から提出されたとしても、許容はしない。兼ねてからの親類の財産分割のことも、同心させた上は前々からの通りとせよ。異議があれば、為久がよいように処置し、規定の年貢額などは年来定めた通りとする。

「権現様御判物写」

大浜郷惣寺領、元康代仁雖落置之、只今為新寄進返付畢、於末代不可有相違、勤行無懈怠可被相勤者也、仍如件、

蔵人佐

元康(花押)

永禄弐年己未

十一月廿八日

大浜

惣寺方

→新編岡崎市史「松平元康判物写」(称名寺文書)

 大浜郷の惣寺領地について、元康の代に欠落したとはいえ、現在をもって寄進する。末代におけるまで相違ないように。勤行を怠ることなく勤めるように。

「遠江国久津部郷之事」

右、当郷除諸給分、一円令扶助畢、息郷八郎為近習可令在府之由、尤以神妙也、但蔭山与次方岡部又次郎給分者、於国静謐之上者、以別所可充行于彼両人、其時五拾貫拾人扶持分、重而可令扶助者也、仍如件、

天文八己亥年九月晦日

治部大輔(花押)

松井兵庫助殿

→静岡県史「今川義元判物写」(土佐国蠧簡集残編三)

 遠江国久津部郷のこと。右は当郷の諸給分を除き、一円を扶助させることとする。子息郷八郎を近習として駿府に滞在されるという。とても神妙である。但し蔭山与次方の岡部又次郎の給分は、国を鎮めた上は、別の土地をもって両人に拠出する。その際50貫10人扶持の分は重ねて扶助するものとする。

年来出置知行名田等之事

右、如父六郎左衛門尉時、於当城走廻之上者、如前々不可有相違、但弟共有之由、各覚悟次第可加扶助、守此旨弥可抽忠功者也、仍如件、

永禄三庚申年 七月廿八日

氏真(花押)

鱸内三殿

→静岡県史「今川氏真判物写」(伊予古文書所収矢野定彦氏所蔵文書)

 年来拠出していた知行・名田などのこと。右は父の六郎左衛門尉の時のように当城で奮闘している上は、前々のように相違がないように。但し弟がいるとのことで、それぞれ覚悟によっては扶助を加えるであろう。この旨を守りますます忠功にぬきんでるように。

遠江国犬居内知行分之事

右、任先判形之旨、永所領掌也、並棟別諸役以下、如年来免除之、若以増分雖有競望輩、不可有許容、出次第令所務、随其分量陣番可勤之、守此旨弥可励奉公之状、仍如件、

永禄ニ己未二月四日

氏真

尾上彦太郎殿

→静岡県史「今川氏真判物写」(掛川誌稿巻九尾上文書)

 遠江国犬居内の知行のこと。右は、先の判形の通りである旨、末永く了解した。同時に、棟別と諸役で年来免除となっている事柄は、増分を担税するといって土地所有を競う者があっても許容してはならない。(増分は)出来次第所務させよ。したがってその分だけ陣番を勤めるように。この旨を守り、ますます奉公に励むこと。