永代売渡申道者之事[大世古宗左衛門 尾張国一円]

在所尾張之国なこ屋一円

なこ屋殿

ろつく 久保 竹嶋 ひろい たわた

井野 おたい 杉之南方 きよす 宮

わた わつゝ おしきり

右件之道者々、宗左衛門方代々知行候を、大世古木戸孫三郎譲得候、雖然依有急用、限直銭百貫文、田中六禰宜忠彦江売渡申候処実正明白也、縦天下大法地起・徳政行候共、於此道者、不可有違乱煩者也、尚宗左衛門方道者此文書之外、尾張国ハ何方ニ候共、自其方御知行可有候、仍放券状如件、

となり(略押)

[木戸孫三郎]忠顕(花押)

天文五年[丙申]三月廿七日

→戦国遺文 今川氏編「木戸忠顕売券」(神宮文庫所蔵御道者売渡証文)

 永代で売り渡す『道者』のこと(大世古宗右衛門の尾張国一円)。所在地である尾張国那古屋一円。那古屋殿。六区・久保・竹嶋・広井・田幡・井野・小田井・杉の南方・清須・熱田・わた・わつつ・押切。右の道者は、宗右衛門方が代々知行していたところを、大世古の木戸孫三郎が譲り受けています。とはいえ急用があるので現金100貫文によって田中六禰宜忠彦へ売り渡すことは真実であり明白なことです。たとえ天下の大法による地発・徳政が行なわれるとしても、この道者で間違いや紛争があってはならない。さらに宗左衛門方の道者であれば、この文書のほか尾張国ならどこの者であっても、そちらから知行を渡すように。よってこの件のように取り決める。

■■■■し申候大日屋しきの■■

    合壱反者

■■■■有要用ニ代物七貫文ニ■■■うりわたし申候処ニ実正也、■■■下一同之徳政入候共、■■■孫々違乱煩候ましく候、■■■後日永代うりけん状■■■件、

神主兵部少輔

広長(花押)

■文九年[庚子]七月五日

■六郎殿

→愛知県史 資料編10「紀広長売券」(津島神社文書)

永代売渡申御道者事

 合壱所、在所尾張国鳴海・丹下・同両家方・寺島方一円大高花井名字中一円

右之道者者、親ニて候者代々従山崎殿買徳仕候て、我等迄知行無相違者也、雖然依有急用直銭限参拾五貫文ニ、小田屋宗兵衛殿方へ永代売渡申処実正明白也、親ニて候者買徳仕候文書ハ、先年午歳大乱ニ失申候間、此文書可為支証者也、已後ニ従何方違乱之儀候共、此儀者一段申合候て売申候間、此道者ハ其例ニ不可成候也、殊道者在所同名字我等知行分一円ニ別ニ日記調渡申候、如此永代可有知行候也、仍為後日売券状如件、

文亀三年 癸亥 六月八日

売主 村松蔵大夫五郎  国次(花押)

    口入 藤ゑもん 清重(花押)

→愛知県史 資料編10「村松国次売券」(経済文書)

 永代売り渡す道者のこと。
 合わせて1箇所。場所は尾張国鳴海・丹下、同じく両家方と寺島方一円、大高花井名字の一円。
 右の道者は、親が代々山崎殿から買い取ったもので、私まで知行としていることは相違ありません。とはいえ急用があり現金35貫文をもって、小田屋宗兵衛殿方へ永代で売り渡すことは真実で明白なことです。親が買い取ったという書類は、先の午歳(1498(明応7)年)の大乱で紛失しましたので、この文書を証文をもって証拠とします。以後どこであれ違乱があったとしても、この件はきちんと合意して売却したものですから、この道者は違乱の条件が適用されるものではありません。特に道者の居住地と名字、私の知行分一円に別途日記を用意してお渡しします。このように永代で知行があるものとします。後日のため売券をこのように決めます。

永代売渡申田地事
 合而壱段ハ 在坪ひは島
         小作五十斗代

右件田地者、近藤右京亮雖為名田之内、従有用要、現銭四貫文定候て、秀憲房へ永代売渡申処実正也、但此内より公方年貢五升、十文毎年御沙汰可有者也、此外一切諸役有間敷候、若於子々孫々、違乱之輩出来候者、公方・地下として、堅成敗可有者也、仍為後日、売巻之状如斯、

永禄二年十二月十七日

  近藤右京亮

    家■(花押)

秀憲房 まいる

→愛知県史 資料編10「近藤右京亮売券」(宝生院文書)

 永代で売り渡す田地のこと。合わせて1段は琵琶島の坪にある小作50斗代。右の田地は、近藤右京亮が名田としていましたが、必要があったので現金4貫文と定めて秀憲房に永代で売り渡すことは真実です。但し、この内から公方年貢5升、10文を毎年納付するものとします。この他一切の諸役はあってはなりません。もし子々孫々において違反する者が出てきたならば、公方・地下として厳格に処罰するべきものです。後日のため売券をこのようにします。

永代売渡申候田之事
合弐貫参百文者

右、件田地、依急用有、同筆へた孫八殿ニ永代売渡申候、所実正也、但彼下地地本三斗代二ツ在所也、殊又在所さんた田迄売渡申候上ハ、地頭殿・御代官・公文・名主・御百性等御妨有間敷候、又ハいか用成子孫出来候共、違乱煩申間敷候、まして我々置て菟角時儀申間敷候、殊又天下一同徳政入来共、彼下地ハ入申間敷、若又田原殿徳政入候共、入間敷候、仍為後日証文状如件、

売主 神戸 青津二郎しんあん(花押)

買主 同 筆へた孫八

請見人 おかおこんの兵衛(略押)

     彦三郎 同子入道(略押)

     又七 平二郎(略押)

永正拾七年 庚辰 八月二日

→愛知県史 資料編10「青津二郎しんあん売券」(伝法寺文書)

 永代売却する田地のこと。合計2貫300文。右の当該田地は、急用により同筆へた孫八殿に永代売却します。これは間違いありません。但し、あの下地の地本は3斗代に2つが在所です。ことにまた、在所の散田まで売却するという上は、地頭・代官・公文・名主・百姓なども妨害してはなりません。また、いかなる子孫ができたとしても、異議申し立てはしません。まして我々においては、とにかく都合を言い立てることはなりません。ことにまた、天下一同の徳政があったとしてもあの下地には適用されず、もしまた、田原殿の徳政があったとしても適用されません。後日のためこのように証文とします。

永代売申田地之事
合六百文目 坪土取

右彼田地者、緒川御城殿様へ米七俵向申候而失候間、彼借状相副、延命寺護摩領ニ現銭弐貫弐百文ニ永代売置申候所実正也、猶後々末代藤二郎子孫其外誰々ニ候共違乱申者候者、従緒川殿可有御成敗者也、然者、従彼田地毎年百文宛色成御納所候て、可有御引得、仍永代如件、

天文廿壱年 壬子 十月廿七日   小塚弥助(花押)

延命寺   寺中まいる     御使 ■取新右衛門

 彼田地者、従御城殿様御売候間、為何徳政行候共於此田者入間敷候者也、

(裏書)

右彼田地者、本米弐俵ニ我等かたへ向置、■戌より壬子まて本利七俵ニ成候間、弐貫弐百文ニ延命寺護摩領我等売置候所也、

信元(朱印・印文未詳)

→愛知県史 資料編10「小塚弥助売券」(延命寺文書)

 永代売却する田地のこと。合計600文目(坪土取)。右のこの田地は、緒川城の殿様へ米7俵向け(担保?)としていたものを失ったので、あの債務状を添付し、延命寺の護摩領として現金2貫200文にて永代売却するのは本当のことです。更には後々の末代、藤二郎子孫その他何人といえども、違反する者は、緒川殿より成敗があるでしょう。ということで、あの田地より毎年100文分の収穫を御納所へ入れて、収税して下さい。