久閣筆候、疎遠之至■、仍就土岐美濃守入国之儀、尾州織田備後守令相談■由候、然者彼国境目等不及再■、弥無事之段、可喜思食■、武家御内書如此候、依■有見除子細、被仰候、■佐々木弾正少弼使僧可申伝候也、状如件、

七月五日

今川治部大輔■

→愛知県史 資料編10「近衛種家書状案」(近衛文書)

1551(天文20)年に比定。ほぼ同文の、太原崇孚・朝比奈泰能・飯尾乗連宛文書がある。

 久しく筆をおいておりました。疎遠の至りです。土岐美濃守入国のこと、尾張国織田備後守に相談しているそうです。ということで、あの国の境目など再論(?)に及ばぬよう、ますます平穏である段、お喜びに思われるでしょう。武家御内書はこのようなので、細かい点は除いて見るように仰せられました。さらに佐々木弾正少弼の使僧が申し伝えることでしょう。

参河・尾張国境目之儀、扨下向之由候、暑気之時■苦労候、仍彼城之儀、自■存分、定不可残候歟、然■美濃守入国間之事、仍無事之段如此間、置目■相違之様、以御内書之■、可被申調事肝要候、委■令直談候条、令省略候也、謹言、

七月六日

(近衛種家 花押)

春蔵主

→愛知県史 資料編10「近衛稙家書状案」(近衛文書)

1551(天文20)年に比定。

 三河・尾張の国境のこと。下向されるそうで、暑いさなかご苦労なことです。あの城のことですが、自らの存分により、きっと残らないことでしょうか。であれば美濃守入国の間のこと、平穏の段このようになっていますので、置目に相違ないよう、御内書の内容をもってご調整下さるのが肝要です。詳しくはお会いした際に申しますので省略します。

案文

上和田之内■■■■■事、広忠・元信末代諸不入ニ御寄進之うへハ、いつかたよりも申事有間敷候、若申かた候者、おのゝゝ可申立候、仍如件、

弘治三年[丁巳]十一月十一日

石川安芸守

青木越後

酒井将監

同雅楽助

同左衛門尉

天野清右衛門尉

榊原孫七

浄明寺 参

→愛知県史 資料編10「石川忠成等連署状案」(浄明寺文書)

 上和田のうち■■■■■のこと。広忠・元信の末代まで不入として寄進したので、誰であっても言い立てることがありませんように。もし言い立てる者があるならば、各々に申し立てるようにして下さい。

御名字・御家督之儀、御相続之段被聞召候、尤珍重之由気色候、仍御字以御自筆被遣之旨、被仰出候、御面目至目出存候、恐々謹言、

五月三日

左衛門佐晴光

謹上 今川五郎殿

      うら書 大館

→静岡県史 資料編7「大館晴光書状案」(大館記所収往古御内書案)

1536(天文5)年に比定。

 ご苗字・ご家督のこと。ご相続の段取りをお聞きになりました。もっとも珍重のことと思し召しでした。御字を自筆でお渡しになるとの仰せを出されました。ご面目の至りで、おめでたいことです。

一昨日貴札忝致拝見候、然ハ土屋民部少輔内岡部惣左衛門と申人之妹、尾州之内寺部と申在所ニ罷有由、最前被仰下候、尾張之内ニ寺部と申在所有之儀、しかと覚不申候、三州之内大納言殿領分ニ寺部と申在所御座候処、御せんさく被成候へ共、三河之内ノ寺部にて可有御座由被仰下、得其意存候、右之内寺部村ハ渡部忠右衛門知行所にて御座候間、様子相尋候て、手形可進之候、成瀬隼人正二三日以前ニ當御地罷下候、拙者儀、近日罷上候間、於尾州ニ様子相尋、手形可進之候、恐惶謹言、

三月十八日

神尾備前守殿

→岐阜県史「某書状案」(村瀬俊二氏所蔵文書)

 一昨日、お手紙をかたじけなくも拝見しました。ということで土屋民部少輔の内の岡部惣左衛門という人の妹は、尾張国の寺部という在所にいるとのことを前に仰せでした。尾張の中に寺部という在所があるとは、全く記憶にありません。三河国の大納言殿領地に寺部という在所がありますので、穿鑿となってしまいましたが、三河内の寺部ということで仰ったことだろうと思います。右の寺部村は渡部忠右衛門の知行なので、様子を聞いて手形を進呈します。成瀬隼人正が2~3日以前にこの地に下ってきました。私は近いうちに上りますので、尾張での様子を尋ねて手形を進呈します。

大坂へ遣候当方之使者、近日其国へ下着之由、先度飛脚来候条越山候、仍長尾上野乱入、自茲、北條氏康申合、既令進陣候間、不得退候、如只今者、景虎滅亡必然候、幸御門跡之御下知之旨、近年申談筋目、御門徒中有相談、此時神保同意、向于越後被動干戈候様ニ馳走、尤肝要候、猶可有山田口上候、恐々謹言、

十月十七日

信玄

上田藤左衛門殿

→神奈川県史 資料編3「武田晴信書状案」

 大坂へ派遣した我々の使者が、近日その国へ到着したと飛脚から聞いた際に、越山して長尾(景虎)が上野国に乱入したと判りました。ですから北条氏康と申し合わせて、既に陣を進めています。退却はしません。このような状況では、景虎の滅亡は必至です。幸いにして(本願寺)御門跡の命令の旨は、近年折衝していることです。門徒の間で相談する時に神保が同意し、越後に向けて軍勢を出動させるよう奔走することが最も肝要です。さらに山田が口頭で申し上げるでしょう。

禁制

東竜寺

一、軍勢・甲乙人等、濫妨・狼藉之事、

一、於境内殺生並寺家・門外竹木伐採、令借宿事、

一、祠堂物、買徳・寄進田地、雖為本人子孫違乱事、

一、准総寺庵、引得之地、門前棟別・人夫諸役等相懸、入鑓責使事、

一、於国中渡・諸役所之事、

右当寺依為無縁所、諸役等令免許(己+十)、若於違犯之輩者、速可処厳科者也、仍制旨如件、

御判

永禄三年十二月日

東竜寺

→織田信長文書の研究「尾張東竜寺宛禁制案」

 東竜寺で、以下の事柄を行なわないように。
一、侍でも侍以下の身分の者でも、暴力行為を行なうこと。
一、境内で殺生したり、寺院関係者の竹・木を伐採したり、宿泊したりすること。
一、寺院運営の金融物件や不動産を侵害すること(本人の子孫だとしても)。
一、総寺庵に準じて、土地を横領したり課税したり作業を命じたり査察を入れたりすること。
一、国中において渡り職人や諸々の役を賦課すること。
 この寺は無縁(アジール)であるから、様々な賦役は免除している。もし違反する者がいれば速やかに処罰する。

※東竜寺は愛知県常滑市大野町に所在。