今川氏真、鵜殿藤太郎が徳川方の攻撃を撃退したことを賞す
去九日、岡崎人数相動之処、及一戦即切崩、随分之者八人被討捕之由、雖不始候、無比類動祝着候、猶各可申候、恐々謹言、 八月十二日 氏真(花押) 鵜殿藤大郎殿 →戦国遺文 今川氏編1734「今川氏真書状」(茨城県立歴史館所蔵 …
去九日、岡崎人数相動之処、及一戦即切崩、随分之者八人被討捕之由、雖不始候、無比類動祝着候、猶各可申候、恐々謹言、 八月十二日 氏真(花押) 鵜殿藤大郎殿 →戦国遺文 今川氏編1734「今川氏真書状」(茨城県立歴史館所蔵 …
今般佐竹出張方ゝ御拘之地御堅固之御仕置、都鄙御覧弥増進、尚以公私御頼敷存候、内ゝ敵退散、翌日右之意趣雖可申宣候、堺目莵角取籠候条、至于今日遅ゝ、意外之至候、一、佐野堺ヨリ承届候分者、必来春二月者義重出張、面鳥之地ニ可付是 …
[切紙]敵動之由注進候間、近辺之足軽共相集、一刻も早ゝ今村へ相移、那波如仰事可走廻候、謹言、 極月六日 氏直(花押) 宇津木下総守殿 →戦国遺文 後北条氏編2594「北条氏直書状」(大阪城天守閣所蔵文書) 天正11年に …
三日之注進状、今六日[申刻]、参着、令披見候、為加勢大藤式部丞并鉄炮衆指越候、敵動之間者、先段指置候、足軽共并鉄炮衆共ニ指置、万端可被申付候、猶以於後詰少も油断不可有之候、於替儀ハ注進尤候、恐ゝ謹言、 極月六日 氏直( …
廿七日注進状、今朔日[辰刻]、参着、披見候、仍新田・館林・足利ト合其地へ相動処、於諸口防戦得勝利、敵為宗之者共数多討捕、手負死人無際限仕出由、誠心地好仕合肝要候、弥無油断仕置専肝候、房州程近、万端可被相談候、自此方も及下 …
廿三日之注進状、今廿四日[午刻]、参着、令披見候、然者芦田・真田令一同、伴野与小諸之間を打通相動由、無是非候、然共指行者致得間敷候、各油断有間敷候、雖無申迄候、近辺之味方中不力落様之備肝要候、必ゝ手前計之備候者、不計凶事 …
[折紙]此度於度ゝ走廻由、自入道殿蒙仰候、誠無比類候、其地御本意、程有之間敷之間、弥可被抽武勇所、専肝候、恐ゝ謹言、 氏邦(花押) 岸大学助殿 →戦国遺文 後北条氏編2530「北条氏邦書状」(岸文書) 花押から天正11 …
四日注進状、今七日辰刻参着候、仍■■先書、敵榎本表張陣、於当方構之地■兼日堅固之備ニ申付候間、於後詰可有時節由、雖覚悟候、手遠之諸味方中、定苦労可有之由、令校量間、為始陸奥守、武州・下総両国之人衆悉今朝打立候、愚之事者、 …
[堅切紙]御在陣之儀ニ付、以御直札被申入候、委細当地御着之時分以面上可申達候条、早ゝ啓入候、恐ゝ謹言、 幸大 定治(花押) 十一月十三日 上筑 御陣所 →戦国遺文 後北条氏編2447「幸田定治書状」(館山市立博物館所 …
帰陣以来者無音之間、及一翰候、抑今度向信甲出張候処、■■在陣苦労之至候、仍樒柑■合進候、恐ゝ謹言、 十一月廿二日 氏直(花押) 一宮殿 →戦国遺文 後北条氏編2448「北条氏直書状」(大坪文書) 天正10年に比定。 …