今川義元という人物は、感情を殆ど表わさない。これは、彼の文書を網羅して読んできて判ったことだ。他の大名だと文面にもう少し癖が出てくる。誠実さお人好しぶりが如実に出ている今川氏真や、かっとなって威圧的な文面を頻発させる北条氏康、それと似ているけれどもう少し皮肉っぽい上杉輝虎、心配性で愚痴っぽい武田晴信などなど。彼らと比べると、義元には本当に通り一遍の文面が多い。
そんな中で、今川義元、武田晴信に、同信虎の女中衆・隠居分について催促するという文書に注目した。常に淡々と用件を書く義元が、嫌味を連発している。
信虎女中衆之事、入十月之節、被勘易筮可有御越之由尤候、於此方も可申付候、旁以天道被相定候者、本望候
信虎の生活の世話をする女中衆について、父信虎を追放した武田晴信は「10月になって初めて筮竹で決める」と義元に通告したようだ。追放は6月だからかれこれ4ヶ月も経つことになる。しかも10月に来るという確約ではない。10月に易を立てるという約束だけでいつ来るかは未定。なのに義元が「こちらでも準備しておきましょう」と書いているのは「本当によこす積もりなんだろうな」という意味を込めているかも知れない。更に、「旁以」=「何れにせよ・どっちにしろ」と続き、「天道とやらでお決めになるのでしょうから、こちらも本望ですよ」と結んでいる。ただ、ここまでであれば、本当に易や天道を信奉しているのか嫌味なのかは微妙なところだ。
そして、「就中」=「とりわけ」と言葉をつなげる。
就中信虎隠居分事、去六月雪斎并岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、漸向寒気候、毎事御不弁御心痛候、一日も早被仰付、員数等具承候者、彼御方へ可有御心得之旨、可申届候
「隠居分」=「隠居用の財産」の明細を問い合わせているのだが、これは6月の追放直後に慌てて甲斐に派遣した太原崇孚・岡部美濃守に対して晴信の了承を取り付けたものの、そのまま放置されていたようだ。暑い時分に追放されたまま何の援助もなく寒くなってきて「あのお方」も不便・心痛で大変そうだから、色々と決めてくれたらそれを事細かく伝えて「あなたの息子はちゃんと心得ていましたよ」と言ってやろうということだ。
先ほどまで「天道で決めるのはよいことだ、こちらも本望だ」と持ち上げておいて、「中でもとりわけ、隠居分は6月から放りっぱなしだけれども、もう寒くなってきたから1日も早く決めてくれ」と落としている。ここまで来ると嫌味と判断してよいと思う。きちんと対応する振りだけで実際には何もしないじゃないか、というニュアンスで間違いないだろう。
信虎の追放については、義元と晴信が事前に合議して決めたというような説も読んだことがある。しかしながら、この文書のニュアンスを見ていくと、『自分の父親を勝手に押し付けておいて放置するな、筮竹などとふざけている』という怒りが私には感じられる。この後、義元は上杉憲政との同盟を模索していく。憲政は晴信と佐久郡を巡って対立している存在だ。1541(天文10)年を境にして、駿河と甲斐は微妙な関係になったのかも知れない。